僕のシコウ

僕のただの“嗜好”であり、同時に“至高”の“私考”。この“思考”は今はまだ“試行”中であるが、僕の“志向”に繋がっている。

約束のネバーランド

日本の漫画界で間違いなく一番人気の雑誌ジャンプ。
ONE PIECEと共に黄金期を支えたNARUTOBLEACHが立て続けに完結し、驚異的な人気を誇るHUNTER×HUNTERが無期限休載を発表した今、ジャンプは崖っぷちに立たされている。
伝説が抜けた枠で試し打ちされる読み切りや意を決してスタートした新連載が、中々次なる主力漫画になりきれていないのがジャンプの現状だ。

 

そんな中、また新しい連載が始まった。
次の月曜で5話目になる「約束のネバーランド」という漫画を
紹介したい。

 

原作:白井カイウ、作画:出水ぽすか

白井カイウは、本名・性別・生年月日非公表の謎に包まれた原作者。

以前に少年ジャンプ+に「アシュリー=ゲートの行方」「ポピィの願い」の2作品を発表している。「ポピィの願い」の作画を担当した出水ぽすかと意気投合して今回の連載にいたった。

出水ぽすかは、ジャンプ連載前から活動をしており、小学館コロコロコミックで「オレカモンスターズ冒険烈伝」「魔王だゼッ!! オレカバトル」を掲載していた。
また、pixivでは話題の絵師として有名で、Twitterのフォロワー数も4万人を超えている。

 

出水ぽすかpixiv(http://www.pixiv.net/member.php?id=33333)
出水ぽすかTwitter(https://twitter.com/demizuposuka?lang=ja)

 

独特な柔らかいファンタジーの世界観に目を惹かれる。画力は申し分なく、特にカラーで映える絵が得意そうだ。
巻頭やセンターカラーの回に期待がかかる。

 

肝心なストーリーは、
『母と慕う彼女は親ではない。
共に暮らす彼らは兄弟ではない。
ここグレイス=フィールドハウスは小さな孤児院。
至って平穏なこのハウスでささやかながらも幸せな毎日を
送る三人の主人公エマ、ノーマン、レイ。
しかし、彼らの日常はある日突然終わりを告げた・・・
子供達を待つ数奇な運命とは・・・!?』

 

この漫画は、いわゆるサスペンス漫画の部類に入る。
実は、週刊少年ジャンプでこのジャンルはかなり珍しい。
サスペンス漫画はストーリーの作り込みに時間がかかるため、週刊雑誌で出すのが難しい。
さらにサスペンス漫画は巻数にすると3〜8巻で完結するものが多いが、ジャンプは打ち切り以外の短期掲載に消極的だ。
逆に考えれば、連載に踏み切る前に原作の内容はだいぶ先までチェックが入っているのかもしれない。
兎にも角にも、ジャンプが新しい一歩を踏み出したことに変わりはないので、
しっかりと見守っていきたい。

 

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↓以下のURLで1話から3話が読めるので是非。
『約束のネバーランド集英社公式サイト(http://www.shonenjump.com/j/rensai/neverland.html)

理想のオコヅカイセイド

「今日の放課後、ビリヤードいこうよ」
「ごめん、今お金ないんだ。」

 

小さい頃から「お金ないから」という理由で、何かを諦めたり、何かを断られたりするのが苦手だった。

 

「お金ないから」という断り文句には、
①価格に見合う価値を見出せない
②魅力は感じるが手持ちがない
という、二つの読み取り方がある。

そもそも、嘘をついたり、はぐらかしたりする場合を除いて、

複数の読み取り方がある言葉を使うべきではないから、
お金がないという言い回しは適切ではない。

 

①なら、こっちが誘う人を間違えたのかもしれない。
②なら、誘うタイミングが遅かったのかもしれない。
両方とも気をつけた上で誘ったなら、やはり自分ではなく相手が悪いと思う。

 

そのとき、相手の問題点は、“計画性の低さ”だろう。
なにかやりたいことが出てきたときに、それに対して払えるお金が足りない。
それはやはり苦しいことだ。

 

その計画性を鍛えるためのシステムこそ、お小遣い制度なのだと思う。

 

しかしながら、その能力を育むためにはそれなりの額が必要で、僕の周りにはそれに満たない額しかもらっていない友達も多かった気がする。

 

子供にはやりくりが楽しくなるぐらいのお小遣いあげないと、ただ貧困生活に追い込むだけで何も意味がない。

 

調べてみると子供のお小遣い平均月額は以下のようになっている。
小学生、1000円
中学生、2500円
高校生、5300円

 

正直、この額では何もできない。
子供が自分の財布からお金を払うことになるものについては、

その度に臨時であげるのではなく最初から月額に組み込んでおくのが僕の中の理想だ。
例えば、病院代(定期検診、風邪程度の病気)、美容院代、洋服代、ディズニー代がそれに当たる。逆に組み込む必要がないのは、携帯代、塾代。
そうすることで自分で先読みをしたり、保険をかけたりする練習になると思う。

 

親は子供にお小遣いをあげる意味についてきちんと考えてほしい。

 

ちなみに僕も基本給は大体同じで、
小学生で1000円、中学生で3000円、高校生で5000円だった。
我が家ではそれに加えて、テストの点数に応じて出来高制のボーナスが支給されるシステムが採用されていて、
小学生のときなら100点の解答用紙一枚につき100円がもらえた。
中学高校になると、定期テストでクラス順位が5位以内の科目数×3000円。
塾に行く日は、授業の有無にかかわらず1日2000円。
他にも臨時収入編として、自分用の株があって配当金がそのままもらえるようになっていた。
月額計算したら、かなりもらっていたと思う。

 

自分に子供ができたらどうやってお小遣いをあげるのか。
だいたいの人が、自分が受けた教育をお手本にすると思う。
親はどういう意図でそのシステムを採用していたのか、聞いてみると面白いかもしれない。
大した理由が返ってこないのなら、参考にする必要もないだろう。

 

まだ気持ちが子供に近いうちに、一度考えておくことに価値を感じた。

CGとリアリティー

いつもなら観た映画の感想は、Filmarks( https://filmarks.com/user/yuimmdgp )に記録するところだが、あまりに一本の映画を逸脱した思考に発展してしまったため、ブログに載せておく。

 

一昨日、ディズニーの実写映画『ジャングル・ブック』を映画館で観た。
シン・ゴジラの上映時間がどうも合わなくて消去法的な選び方ではあったが、
ディズニー映画に育ててもらった自負がある僕は、半ば義務感に突き進められるようにして座席に着いた。

 

今この映画は、「主人公以外すべてがCG」を合言葉に注目を集めていて、
ネットでもCGがリアルだと評判になっている。
最近の映像美を売りにする映画にありがちな感想に、僕は前々からなぜだか違和感を覚えていた。
この違和感は加速していく一方で、CGを使うこと自体が何か間違った方向に進んでいる気さえした。
このジャングル・ブックを観ながら、僕はやっと自分の違和感の正体の尻尾を掴んだ。

 

CGがなんでも作れるからこそ、
台本通りの、監督の思うがままのものが出てきてしまっている。
つまり、出来すぎているのだ。
躍動感みたいなものやリアリティみたいなものであって、やはり本物ではない気がしてならなかった。
CGは空想を具現化できても、作り手の空想を超えることは出来ない。
予定調和的映像になる。
それが必ずしも悪いわけではないが、
表現方法としてのCG技術よりも、
表現した対象を評価をするべきだ。
CGまで使って表現したかったことは何なのか。
CGを使わないと表現できなかったことは何なのか。
そこに焦点を当てて考察しないことには、その映画の良さは語れないと思う。

 

この映画がCGを使ってまで表現したかったのは、動物の表情にある気がした。
正義感の強い黒豹、能天気なクマ。
各動物の顔から性格まで読み取れた。
まさか自分にそんな能力があったなんて吃驚だ。
そんなうぬぼれすら与えてくれるほどに、CG技術の向上を感じた。
人間はまだしも動物に関しては、どう考えてもアニメーションの方が表情が伝わってくる。
アニメーションの動物は人間に寄せて表情を作っているからだ。
リアリティを追求し、CGで本物そっくりの動物を作り上げれば、
自ずと表情は読み取りにくくなるはず。
CGにリアリティを求めるのはやはり見当外れだろう。


アニメーション映画のジャングル・ブック(1968)は、ウォルトの遺作で有名だ。
内容が人種差別的だと批判されていたらしい。
深読みが過ぎる気もするが、当時はそれほど人種差別に敏感な時期だったことがわかる。
それから50年経って、同じ内容の映画をみても人種差別を感じる人は居なくなった。
しかし、人種差別問題は解決していない。
世界レベルでの人権問題解決に、どれほど時間がかかるのか。
ジャズ調の音楽を聴きながら、ぼんやりと考えてしまった。

嫌われるダレノガレ

今や芸能界に溢れるハーフタレント。

持ち前のすらっとした体格と、堀の深い顔立ち。
意識的にか無意識的にか海外に憧れて育ってきた日本人からすれば、
本物の血が入ったハーフタレントは見栄えがいい。

モデル上がりで弁がたてば、バラエティ番組にも引っ張りだこだ。
その中でも、最近悪目立ちをしているといえば、ダレノガレ明美らしい。

 

特段興味があったわけではなく、関連動画の関連動画を漁っていくうちにたまたま見た動画に、ダレノガレが出ていた。

「タメ口ハーフタレント、年下にタメ口きかれても怒る訳にいかない説」という仮説を検証する番組だった。
打ち合わせの際に、年下のADからタメ口をきかれたり、名前の呼び捨てをされたりしても怒らないのか、隠しカメラで撮影したシーンが放送された。
タメ口をきかれても全く怒らない水沢アリー、道端アンジェリカに続いて三番目に登場したダレノガレは、ADに対して「タメ語はやめな~、怒られるよ~」と注意した。
ADが「ダレノガレって、タメ語じゃん、みんなに」と返すと、「私は空気を読んでるけど、(そっちは)空気読んでないじゃん」「多分キレられると思う」と注意した。

 

僕はこの動画を観て、ダレノガレって意外としっかりしてるんだなと思ったが、
動画のコメント欄を何気なく覗いてみると、
「ほんとに嫌い」「ダレノガレ、性格悪い」「こういう女キモい」など、ダレノガレへの誹謗中傷であふれていた。

 

人によっては、自分はタメ口をきいてるくせにと思うらしい。
こんなに一般的な感覚と僕がズレているのかと心配になった。

 

しかし、本当に一般論として嫌われているなら、バラエティ番組にも呼ばれなくなるわけで、実際にはそこまで嫌われていないはずだ。

今までは番組に出ている人をネットで叩いて満足していたところを、
今ではタレントを叩いている人を叩くことで優越感を得る風潮があるのではないだろうか。
そうすることで、番組側は何もしなくても視聴者同士で論争になって話題性が生まれる。
わざと粗のある番組を放送するという新手の話題作りに思えてきた。

番組をリアルタイムで見る人が減った今、民度の低いネットニュースにでも取り上げてもらうことが、注目されるためには重要みたいだ。

 

VS矢口、VSトリンドル、VS神室舞衣など挙げればきりがないほどに、ダレノガレは噛み癖があって面白い。
かといって、形振り構わずでもなく、きちんとした持論で相手を殴るからさらに興味深い。
おぎやはぎのメガネびいきでの潮吹き発言はぶっ飛んでた。
歯に絹着せた物言いをしてしまったら芸能界に埋もれるから、このまま突っ走ってくれ。

ロバートルールのユウヨウセイ

先日、メンサの公式例会に参加した。
「ロバートルールを学ぶ会」という、JMでは少し珍しい勉強会形式の例会だった。

 

そもそも、ロバートルールとは、会議中の無駄な時間を徹底的に取り去ることに主眼を置いた議事進行法で、現在では国連や各種国際会議をはじめ、メンサでも総会を円滑に進めるためにこの手法が採用されている。
そこで、今回の例会では「総会で戸惑わない」レベルが目標に設定されていた。

 

ロバートルールの細かい内容すべてを書く気はないので、
気になる人は調べてみてほしい。

以下、特徴的なルールを4つ紹介する。

 

・提出された動議に1名以上の賛同者が必要である。
これをセカンドと言い、提出者以外の人物がセカンドと発言することで成立する。
動議の内容で審議を行うことに賛同したにすぎないため、セカンド自身がその動議に反対意見を述べても問題ない。
1人からだけの提案には付き合えないという考えではあるが、むしろ賛同者が一人で良いと思えば、きちんと少数の意見を尊重していると言える。

 

・審議における発言時間は一回10分まで、且つ、一人の参加者が一つの議案で発言できる回数は2回まで。
まず提案者が発言したあと、議長は初回の発言となる人を優先的に指名する。また、賛否の割れた議論では、賛成意見と反対意見を極力交互に取り上げるよう努めることになる。
このルールがあることで、参加者は事前に自分の意見をまとめてくる必要性を感じるようにできている。
しかし、出席者の3分の2の賛成で変更も可能で、今年のJM総会では「発言時間は一回2分まで、そのかわり発言回数は無制限」に変更された。

 

・一事不再議の原則
同一会期中においては、一度審議が行われた上で何らかの結論を得た議案については、再び同内容の議案を提出することはできない。
会期が異なれば同内容の議案を提出することも可能であるが、情勢に明らかな変化がない場合には、引き伸ばし議案と判断され却下される。

 

・再審議
同じ会期でも、一度採決された議案に対して新たな事実が判明した場合、再審議の動議を提出できる。
しかし、多数決において、多数側の人物が意見を翻さない限り結果は変わらないので、
再審議動議の提出者には、当初の議案の採決において多数側に投票した参加者のみという制限がある。
また、再審議において当初の採決結果と異なる結果を得る場合は、3分の2以上の賛成を必要とする。


JMの総会の定足数は10分の1、つまり250人程度である。
ロバートルールは30人ほどの会議で真価を発揮するため、JM総会では有効とされる範囲を優に超えているだろう。
しかし、それ以上の議事法が存在するわけでもないため、ロバートルールに改変を加えて使い続けているのが現状だ。
特に、参加者全員が同レベルの意思表示をできる資格を有する議事法では、このロバートルール以上に有能なものはないとされている。

 

ロバートルールによる会議は、全参加者が扱う議題とこの議事法についてよく知っていなくては成り立たない。

 

すでに世界的に基準とされ今後とも広がってくこの議事法は、理解しておいて損はない。
そして、自分の融通が利く会議があるなら、取り入れるか検討してみても面白いと思う。

 

普通のイチ

普通になりたい。

普通になりたくない。

 

普通はこうするでしょ。
普通に考えたらそんなことしない。

 

人は、あたかも普通を知っているかのように、
普通が決まっているかのように、
日常的な会話をしている。

 

一般的に普通だと思われていることは、本当に普通なのだろうか。

どう考えても普通ではないが、普通だとされておくべきこともあるだろう。


認識しているかどうかにかかわらず、
対象となる人全員の平均。
それが本当の普通の定義だとすれば、
普通の人が一人いなくなったとこで、普通は変わらない。

 

普通の人が、誰かに影響を与えるのは難しい。

僕は人に影響を与えることで自分の存在意義を感じるから、普通ではいられない。

 

そのためにも、普通とはなんなのか、できるだけ高い精度で知りたい。

 

普通を知ることは、自分も含め人の価値観の位置を把握するためにどうしても必要で、
一番精度が求められる行程。

血液型とセイカク


血液型から性格を判断する話は、好き嫌いが分かれる。

 

血液型による性格判断を嫌う人は、
「全人類を4種類に分けただけでうまく特徴を見出すことは不可能だ」を常套文句にしている。
しかしながら、全人類をさらに少ない2種類に分けただけの“男女あるある”は、比較的認められている気がする。

 

たしかに、この二つの例では社会的に求められる像の具体性に差があるが、各血液型の像も十分にクリアだと思う。

 

A型は几帳面、B型はマイペース、O型は大雑把、AB型は変人。

 

血液型と性格に科学的な結びつきがないにしろ、すでにこの特性らしきものをみんなが認識している時点で影響を与えているに違いない。

 

ヒトは一人では生きていけないから、集団の中での協調性を重んじる傾向にある。
そのため、ヒトは与えられた役割を無意識に全うしようとする生き物だ。

 

◯型は△△な性格だと、小さい頃から刷り込みがされていれば、自ずと寄って行ってしまうはず。

 

そういう意味で、科学的根拠は存在するのではないだろうか。