僕のシコウ

僕のただの“嗜好”であり、同時に“至高”の“私考”。この“思考”は今はまだ“試行”中であるが、僕の“志向”に繋がっている。

人生のシュヤク


演技は人生の本質であり、誰しも同時並行でいくつもの物語に多様な役で出演している。

しかしながら「人の数だけ物語は存在する」とは思えない。

他人の人生の脇役を勤めるだけで満足して、自分の人生でも主役になれていない人が沢山いるからだ。


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脇役止まりと主役級。この2種類の人間のあいだには大きな壁がある。

脇役止まりの人間は割り当てられた役を演じるだけなのに比べ、主役級の人間は演者でありながら脚本を書き配役もする。より総合的な技量が必要になるから移行は難しい。いや、残酷だが大人になってから獲得できるシロモノではないのかもしれない。

話を聞くなら、一緒に物語を作るなら、面白い脚本を書けて配役も的確で主役級の演技力がある人間の方が楽しいに決まっている。集めよう。集まろう。


表現媒体のシガラミ


人間は日常的に他人の物語をインスタントに摂取している。

映画・ドラマ・舞台・コント・漫才・音楽・小説・漫画・絵画・写真あたりがメジャーどころで、そのどれにも興味がないという人はなかなかに珍しい。

趣味として掲げる人も多く、たとえば映画が好きだといえば当たり前のように一番好きな映画を聞かれる。

そこで答えに詰まって、良い映画とはどういうことなのだろうかと考える。

CGが綺麗?後に残る?何回も観たくなる?メッセージ性が強い?制作費が高い?有名な俳優が出ている?

どれもしょうもない項目ばかりだ。

いや、それ以前にどの表現媒体を使おうと他人の物語であることには変わりないのに、あるひとつの表現媒体の中だけで優劣を決めようとすることにはどんな正当性があるのだろうか。


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表現媒体ごとの得意不得意をあえて無視したような小説っぽい漫画や舞台っぽいコントや写真っぽい映画をよく見かける。

「原作の方が良かった」という感想が溢れるとわかっていながらも派生作品は増えていく。

表現媒体をズラす理由は、表現媒体に縛られる消費者が圧倒的に多いからに違いない。映画しか観ない人、小説しか読まない人、音楽しか聴かない人。

何をどう描きたいかではなくどんな人に鑑賞してほしいかで表現媒体が選ばれている。

自分が新しいと感じても他の表現媒体では使い古された手法かもしれない。


僕は比較的さまざまな表現媒体で他人の物語を摂取しているようだ。

より抽象的に物語を噛みしめているから表現媒体による違いに鈍感なのだろうと思う。

どの媒体でも良いなら沢山の媒体に触れていた方がバリエーション豊かで質の高い物語を収集できる気がする。

だから、これからも出来る限り手段を絞らないでいたい。


職業のキセン



「職業に貴賤なし」という言葉はだれしも聞いたことがあると思います。

これは独学で儒教を学んだ江戸時代の思想家である石田梅岩の教えだそうです。

士農工商(天下万民の職業)の階層は社会的職務の相違であり、人間価値の上下や貴賤に基因しない。

今でもスローガンのように耳にするのは、その感覚が根付いていない、つまり職業による貴賎が存在すると思っている人が多いからなのではないでしょうか。


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貴賎に限らずとも職業に付随されるイメージがこれほどまでに定着しているのは、メディアの立ち振る舞いによるところが大きいと思います。

職業と関係のないニュースでさえも職業を付け加えて報道する。それは順接的または逆説的に各職業のあるべき姿を刷り込む結果となっています。

そうして得たイメージを基に日常的な会話の中でさえ職業から個人の価値や特性を邪推する習慣が、世間一般に広がっているように感じます。


政治家・医者・弁護士・教授・教師のような先生と呼ばれる職業だからといって、常にだれからも褒められるような言動をするわけではない。

すべての大学教授が模範的な子育てをしているとは限らないし、そうするべきなのは大学教授だからではなく一親だからである。

そんな当たり前のことがまだまだ認識されていない事実を、絶え間なく繰り返される炎上の中に見出さざるを得ません。

SNSで個人が職業を背負って気軽に発言できるようになったこの時代だからこそ、職業を個人から切り離し個人を多面的な存在として認識する感覚をスタンダードに据えなくてはみんなが生きにくいはずです。


良いニュースでも悪いニュースでもメディアが情報のひとつとして個人の職業を報道するかぎりは、職業の貴賎という感覚を根絶するのは難しいでしょう。

それでも個人単位で出来る抵抗として、職業と個人を切り離す目線は常に意識しておきたいところですね。


2018年下半期の展覧会


昨年は1年で133、今年の上半期は80、下半期は26。僕の中で美術鑑賞の波は大きくうねっていて、今はちょうど小さい時期のようだ。

思い返してみると確かに趣味の時間をその分“食”に費やした下半期だった。

例によって印象的だった展覧会をまとめておく。


Pop, Music & Street キース・ヘリングが愛した街 表参道

http://www.nakamura-haring.com/exhibition/

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無料だとは思えない量の作品群に、表参道ヒルズという立地。表参道の路上にドローイングするヘリングの姿を捉えた秘蔵写真も世界初公開されていた。表参道でやることに意味があった展覧会。



モネ それからの100年

https://monet2018yokohama.jp/

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モネの睡蓮といっても、サイズや構図や色彩、かなりのバリエーションが存在する。僕自身も今までにもたくさん観てきたけれど、このチケット絵柄になっている山形美術館所蔵の睡蓮には特別感動させられた。

花咲く睡蓮の池の水面に木々や雲が映り込み、実と虚が絡み合いながら迫り来る画面。「何を描くかは二の次で、本当に表現したいものは、描くものと自分の間に横たわる何かだ」というモネの信念が強く現れている気がした。



アジアにめざめたら アートが変わる、世界が変わる 1960-1990 年代

http://www.momat.go.jp/am/exhibition/asia/

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昨年大成功を収めたサンシャワーに代表されるように、アジアの美術といえば90年代以降の現代アートに限定されていたように思う。

社会条件が揃うと決まって展開する都市化・産業化と並行した脱植民地化・民主化・脱中心化の流れをいくつかの都市でピックアップし、近代美術の目覚めを見つめ直す。

日本と韓国は60年代、東南アジアは70年代、中国は80年代。時間軸をあえて排除し、文化の発展段階で串刺しにした比較形式がこの展覧会の特徴。新規性がある。良い論文を読んでいるような気分だった。



マルセル・デュシャンと日本美術

http://www.duchamp2018.jp/

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上野で同時に開催されているムンク展とフェルメール展の影に隠れてしまった展覧会。フィラデルフィア美術館のアジア初巡回展で網羅的にデュシャンの作品を見られるとあって、現代美術に関心があるなら行かない選択肢はなかった。

『階段を降りる裸体』『大ガラス』がやはり特に印象的だった。



東山魁夷

https://bijutsutecho.com/exhibitions/2250

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唐招提寺御影堂襖絵の再現展示が圧巻だ

った。仕切りの制限がない巨大な展示室を持つ国立新美術館だからこそできた展示形式。初期作品の『残照』『道』は元々知っていたけれど、晩年の作品は更に煌めきを増していて素晴らしかった。千住博が影響を受けたに違いない白馬シリーズは込められた生命力が凄まじい。



ムンク展―共鳴する魂の叫び

https://munch2018.jp/

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誰もが知る『ムンクの叫び』が日本初上陸した。

夕陽とフィヨルド。巨大な自然を前にして桟橋という心細い抵抗に身を委ねるしかない人間の無力さと不安。なぜこんなにも切迫した状態に人は叫び出さないのか。叫んだのも聞いたのも自分自身だったのかもしれない。叫ぶことがより自然なことで、うねりながら自分と自然が同化する。



2019年開催の気になる展覧会一覧

イサム・ノグチと長谷川三郎 ―変わるものと変わらざるもの

アルヴァ・アアルト もうひとつの自然

ル・コルビュジエ 絵画から建築へ ― ピュリスムの時代

福沢一郎展 このどうしようもない世界を笑いとばせ

百年の編み手たち ― 流動する日本の近現代美術

クリスチャン・ボルタンスキー展 ― Lifetime


試行回数のゲンカイ


商業的にはハロウィンが終われば間髪入れずにクリスマスだ。

対して僕の心持ちはといえば、紅葉の見頃が終わってよくやく追いつく。

街の雰囲気もイベントも食べ物もクリスマス独特の仕様で、その節々が記憶と結びついているから一年のどんな日よりも思い出を遡りやすい。

何歳の時は誰といたか、何をしたか。

どれだってそれ自体が楽しい思い出であったことに違いはないけれど、今振り返ってみると同じことを繰り返していただけのようで物言えぬ寂しさに襲われる。


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一対一の人間関係の在り方には無限の可能性がある。それは疑いようのない真実だ。

しかし、自分が生で体験できる関係性に限るのであれば、2人のうち片方が自分である時点で大きな偏りがあってもはや多様とは言えないのではないか。

刻一刻と自分が変わっていてもその変化の速度には限界がある。

映画でもアニメでも小説でもコントでも。あらゆる物語性を含む刺激は、登場人物の全てが自分ではない点で生の関係性よりも多様性がある。コストも段違いに低い。

そんな中で、生の体験にこだわって真新しい刺激を得られる勝算はどれほどなのだろうか。

またどうせああなる。そう思いながら誰かと時間を共にすることに期待感を持つのは難しい。

失敗を重ねて身動きが取れなくなる前に成功を手に入れなくてはならない。

試行回数の限界が見えてきた気がする。


時代のホウカイ


平成最後という煽りに嫌気が差す。

いくら元号が変わろうと未来の代名詞となった2020が訪れようと、途端に何が変わるわけではない。

そう思いながらも、根底では迫り来る次の時代に恐怖を覚えている。

時代に乗れないことや時代遅れであることが恥に直結するという考えは未だに強い力を有していて、自分自身が次の時代の一員になれるのか不安にさせられている。


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一人前に怯えているクセに、時代と呼ばれる巨大な概念が果たして何を指しているのかを、僕は上手く説明できない。

割と近い感覚の言葉として文化が挙げられると思う。同時期に共通の特徴を見出せる大きなまとまり。

ただし、そうした場合には現行の“個人主義・多様性の時代”という表現は可笑しな言葉の組み合わせで、同じ時間を生きる人々に顕著な特徴を見出せないことこそがこの時代の特徴であるという次元のずれた別の解釈を迫られる。

このように現代における時代はキリストが生まれてから何年経ったのかという時間性だけで語ることができないのは確かで、少なくともこの意味での時代にはもはや有用性が認められない。そして、恐れを抱く必要もないはずだ。


それぞれの人間が自分の時代を生き、別々の時代が同一の時間に存在して干渉を繰り返す。

無意識的に多様な時代を自分の足で跨いで生きている。いとも容易くタイムスリップを繰り広げているとも言えるかもしれない。

自分と同じ時代に生きていると見なせる人はどれだけ存在するのだろうか。

僕は価値観が合う人よりスピード感が合う人と一緒にいたい。


時間は解決してくれない



「時間が解決してくれる」というセリフは、悩みを抱えた人を慰める場面の常套句になっている。

ああでもないこうでもないと相談をしてお開きが近づくと決まって出てくる。

しかし、僕には“時間”が諸問題に万能薬として作用しているとは到底思えない。


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人間の悩みは全て対人関係の悩みであると言われるように、ひとつの問題には複数の当事者が存在する。

自分も当事者でありながら何もせずに問題が解決したのであれば、それは“時間”ではなく別の当事者が問題解決に尽力してくれたのではないだろうか。

課題の分離を放棄して別の当事者へ課題を押し付ける。卑怯者だ。それならそれで罪悪感くらいは持っておくのが道理だと思う。


そう考えている僕でも意図的に問題に時間を置くことがある。

それは、別の当事者に解決を委ねているわけではなく、時間を経て少なからず当時の自分ではなくなった新しい自分(と別の当事者)に解決してもらうことを期待している。

もちろんそれで上手くいくこともあれば上手くいかないこともあるが、上手く解決できたのならやはり“時間”ではなく新しい自分たちが解決したと言える。



放っておいても誰かに解決してもらえる問題は確かに多い。しかし、それでは解決は遅くなるばかりだ。

どれだけ早く解決するかを気にするのであれば、消極的当事者になるのはいつだって悪手に違いない。

僕たちはどの問題に対して積極的当事者でいるかを選ぶ必要がある。