僕のシコウ

僕のただの“嗜好”であり、同時に“至高”の“私考”。この“思考”は今はまだ“試行”中であるが、僕の“志向”に繋がっている。

哲学カフェ「諦めるのはどんなときか」

4/16、クルミドの朝モヤに初参加してきました!
哲学カフェの名前にあえて哲学カフェを入れないのってオシャレだなー。
クルミドはカフェの名前、朝モヤは9:00〜11:00という時間帯と日々のモヤモヤを話す場所という意味から来ているようです。由来もオシャレ…。
西国分寺の駅から徒歩3分のクルミドコーヒーは有名なカフェで、雰囲気とコーヒーがもうホント最高でした。

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参加者は16人でほとんどが地元民。地域密着型の哲学カフェのようです。
西国分寺にほど近い小金井哲学カフェに参加している方もチラホラ見かけました。
この哲学カフェはなんといっても民度が高い
知識量で殴りあう雰囲気が全くありませんでした。

  • 聞くことに集中する
  • 多様性を楽しむ

というクルミドの朝モヤのグランドルールによるものかもしれません。
独特な雰囲気を常連さんたちは“朝モヤバイアス”と呼んでいるそうです。


もう一つ面白いのは、2時間のうち半分以上の時間をテーマ決めに費やすこと。
当日テーマを決めるスタイルの哲学カフェもちろん存在しますが、テーマ決めにこんなに時間をかける哲学カフェはかなり珍しいと思います。
運営だけで問いを考える楽しさを独り占めせずに、参加者全員に共有していることは、とても良いことでしょう。
参加表明も必要なく“気が向いたら行く”ができるのも、哲学カフェのあり方として理想的で先進的だと思います。


16個ぐらい出た案からみんなで1つに絞って、「諦めるのはどんなときか」をその日のテーマに決めました。


そもそも日本では諦めない美学が共通感覚として存在しているので、“諦める”という言葉には自動的にマイナスなニュアンスが含まれてしまう
“認める”というほど全肯定しているわけでもないし、“許す”ほど上から目線でもない。しっくりくる言葉が日本の日常語に存在しないのかもしれない。


諦めるという言葉を使うときほど諦められていない。
もし本当にきっぱり諦められているのであれば、話題にすら上がらないから。
諦めるという言葉を選んでいる時点で、諦めるべき・諦めたいと思っているときなのだろう。


諦められる、決断できる自由を与えられている状況は、根本的に贅沢だということを忘れてはならない。

 

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終わった後もまだ話し足りない人たちで残って話す文化もあるようです。
深々煎りコーヒーが美味しかった!
また行きます。

 

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