好きで嫌いなら好きに違いない
僕は星野源が紛れもなく好きだ。そう断言できる。
ラジオパーソナリティとしての星野源やアーティストとしての星野源が好き。
オールナイトニッポンは開始から毎週欠かさず聴いているし、カラオケに行けば必ず彼の楽曲を歌う。
ただ、俳優としての星野源や物書きとしての星野源は嫌い。“好きではない”どころか“嫌い”だ。
コントでもドラマでも、彼の演技が気に食わない。意図せずに視界へ入ってきてしまったら、ずくに目をそらす。
自叙伝的な本もわざわざ手に取ってみたけれど顔を歪めずにはいられなかった。
「物事や人を評価する際に、特徴的な一面の評価に影響され、その他の側面に対しても同じように評価してしまう」という心理学でいうところのハロー効果を、僕は人よりも受けにくいと自覚している。
それは長所であるとともに、自分もそう扱ってほしいという気持ちを強く持っていることも表明しておくべきだろう。
マルチに活躍する有名人ほど各面に明確な名称が与えられている人は少ないけれど、どんな人間でも多かれ少なかれ多面的な生き物であることに違いない。
しかしながら、日々の生活の中で「磨いて滑らかな曲面にしろ、切り開いて全ての面を一目で見れるようにしろ」、そんな圧力を強く感じる。
どうにか一面的になるように加工させて評価を下す側のコストを削減する。
その圧力の気持ち悪さを一言で表現するのは難しい。
僕は、人の複雑性にこそ面白みがあると思っている。
自分が評価する側でも人の複雑性を理解するためにコストを払うのは敬意の範疇。
僕は嫌いな面が好きな面と同じくらいあろうとそれは全体としては間違いなく好きだと言って良いと思っている。
好きで嫌いなら好きに違いない。
そう考えれば、多面的な評価を下す場合でもコストが極端に上昇することはない。しかも、好きな人が増える。