良い名前のジョウケン
「こんなキラキラネームがあるらしいよ、マジウケる」という薄っぺらい笑いが現れてから、もう15年は経っている。
モラルの形成には時間がかかるとは言え、あまりに長く存在しつづけていて実に不快だ。
名付け親の神経を疑うとか子供が可哀想だと言っても、その子供の味方をしたことにはならない。そんなことさえもわかっていない。
名前の価値判断基準には“誰に付けられたか”という項目があって、名付け親を否定されるのは自分を否定されるよりも辛い。お前の母ちゃんデベソと同じで。
そもそも、名前も人種や身体的特徴と同様に生まれながらにして持っている要素なのだから、差別的に扱ってはいけないはずでしょ。
有難い事に僕は自己紹介をすると十中八九「良い名前ですね」と言ってもらえる。
これが誰にでも当てはまる“あるある”ではなくて、珍しい名前の人だけだと気付いたのはここ最近のことなんだけど。
一般論として名前には良い悪いがあって、珍しさは良い名前の必要条件なのだろう。
そもそも名前には識別を目的とする記号という側面があって、識別性能が高いことが重視されるのは当たり前。
特に、人生の中で出会う名前が加速度的に増加している現代においては、今まで聞いたことがないような斬新な名前(さらに言えば検索で引っかかりやすい名前)が出現するのもやはり当然だと思う。
でも、いわゆるキラキラネームは珍しいにも関わらず良い名前とは思われていない。
そこで、その他にも“初見でも読める”とか“由来が想定しやすい”ことも良い名前の条件なのかもしれないと考えを及ばせることになる。
一般的とは言えないまでも、僕が思う良い名前の条件もいくつかある。
まずは“自分で由来を決め直す余地がある”こと。
僕が今でも自分の名前を好きでいられるのは、まさしく僕自身の名前もその条件を満たしていたからだ。幾度となく救われた。
他には、“呼びたくなる音”であること。わざわざニックネームを付けて短縮する必要もなく、そのままの音で口に出したくなるような。
同年代の人たちに子供が出来始めたからだろうか。
僕は今のところ結婚も子供も欲しくないけれど、人に名前を付けてみたい、名付けの重みを味わいたいと最近よく思うようになった。
もしその機会に恵まれたら、考えに考え抜いた一生の宝物を授けたい。