時代のホウカイ
平成最後という煽りに嫌気が差す。
いくら元号が変わろうと未来の代名詞となった2020が訪れようと、途端に何が変わるわけではない。
そう思いながらも、根底では迫り来る次の時代に恐怖を覚えている。
時代に乗れないことや時代遅れであることが恥に直結するという考えは未だに強い力を有していて、自分自身が次の時代の一員になれるのか不安にさせられている。
一人前に怯えているクセに、時代と呼ばれる巨大な概念が果たして何を指しているのかを、僕は上手く説明できない。
割と近い感覚の言葉として文化が挙げられると思う。同時期に共通の特徴を見出せる大きなまとまり。
ただし、そうした場合には現行の“個人主義・多様性の時代”という表現は可笑しな言葉の組み合わせで、同じ時間を生きる人々に顕著な特徴を見出せないことこそがこの時代の特徴であるという次元のずれた別の解釈を迫られる。
このように現代における時代はキリストが生まれてから何年経ったのかという時間性だけで語ることができないのは確かで、少なくともこの意味での時代にはもはや有用性が認められない。そして、恐れを抱く必要もないはずだ。
それぞれの人間が自分の時代を生き、別々の時代が同一の時間に存在して干渉を繰り返す。
無意識的に多様な時代を自分の足で跨いで生きている。いとも容易くタイムスリップを繰り広げているとも言えるかもしれない。
自分と同じ時代に生きていると見なせる人はどれだけ存在するのだろうか。
僕は価値観が合う人よりスピード感が合う人と一緒にいたい。