僕のシコウ

僕のただの“嗜好”であり、同時に“至高”の“私考”。この“思考”は今はまだ“試行”中であるが、僕の“志向”に繋がっている。

美のキョウカ


ミロのヴィーナスは、両腕がないからこそ各々の想像力によって特殊から普遍への飛翔が可能であり、未完ゆえに完成している。

そんなに格好を付けて言うことでもなくて、歯科医院のお姉さんも街で通り過ぎていく人々もマスクをしているだけで脳内補正が仕事をして端正な顔立ちに見えるという現象と同じだ。

未完は自分好みの美という安心感を提供してくれる。



小さかった頃は僕が死ぬまで完成しないと言われていたサグラダファミリアも、あと7年で出来上がるらしい。

なんでも近年の設計技術の革新と観光客増加による資金の潤沢化が理由で予想以上の速度で工事が進められているとか。完成予定時期をわざわざガウディの没後100年に設定しているところから考えるとさらに余裕があるに違いない。

僕は子供ながらに一生完成しないと安心しきって自分勝手なロマンを押し付けていたもんだから、完成の目処が立ったニュースを聞いても素直には喜べずにいた。

どうせ完成してしまうなら未完の状態のサグラダファミリアを観に行かなくては。その焦りが僕を動かす前にサグラダファミリアに呼ばれるが如く機会に恵まれた。


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僕に建築への興味を持たせたのは間違いなくサグラダファミリアだ。小さい頃から繰り返しめくったガウディの作品集の空間がすぐそこにある。想像するだけで気持ちが高ぶっていった。

自分の練り上げた理想が現実に壊されるかもしれないという恐怖は好奇心に似た感覚として処理され、自らの足で大きく開かれた口に入っていく勇気までも肩代わりしてくれた。

大聖堂という統一されたテーマを持ちながらも各部分によって作風が異なり、その不一致が何か巨大なキメラのような幾多の力強い命を感じさせた。生命体の腹の中にいるような熱気に肌を舐められ、人ひとりでは到底抗えないという無力感とともに安心感が湧いてきた。僕は予定調和的に圧倒された。


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バルセロナ市内には他にも古くて有名な教会がいくつかある。サンタマリアダルマル教会やサンタエウラリア教会は、サグラダファミリアと打って変わって閑散とした厳かな雰囲気で教会として機能していた。それらの教会には滞在中に何度も足繁く通ったが、サグラダファミリアには結局一回しか行かなかった。

毎日必ずチケットは売り切れ、ファサードには予約しないと登れない。外も内も観光客で溢れているのがサグラダファミリア

7年後に建造物として完成しても土着的な教会にはならないと確信できた。

サグラダファミリアの求められた機能はただの大聖堂ではなく人々を圧倒すること。大きな都市なら1つはそんな教会がある。特段不思議なことでもないのに観光地に甘んじていることに寂しさを覚えたのは、僕がロマンを着せ込んできたせいだろう。


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パリではその役割をノートルダム大聖堂が担っていた。大火災のニュースで流れた街の人々の顔も忘れられないが、それ以上に観光で訪れて圧倒された人々が世界中にいることを実感させられた。

中でも日本人は尖塔が焼け落ちる様に金閣寺を重ねた。永遠と思われた完璧な美が儚く崩れていく。

放火に至らないまでも個人的な解釈を積極的に持ち込んで美を強化する僕の姿勢は、溝口のそれとなんら変わらない。