僕のシコウ

僕のただの“嗜好”であり、同時に“至高”の“私考”。この“思考”は今はまだ“試行”中であるが、僕の“志向”に繋がっている。

合意のアジケナサ


出会い系はマッチングアプリに改名し、印象までも一転させた。

間違っても遊び人とは呼ばれないタイプの若者でさえ、今では当然のようにマッチングアプリに登録している。

いやむしろ、そういう人たちの方がマッチングアプリを上手く使いこなして恋人を作っている例をよく見聞きするくらいだ。

マッチングアプリは、恋愛の始め方を拡張することで恋愛下手とされてきた人たちを恋愛市場に送り込み、今までになかった市場の活性化を引き起こした。

ロマンティックな恋愛なんて古いと言わんばかりに、より具体的・理性的・効率的な方向に進んでいる。

それもお見合い結婚の派生としてなら合点が行くけれど、恋愛結婚との親和性まで主張されると理解に苦しむ。

交際相手を探している者同士が目的の合意のもとで出会う。その目的意識に塗れたリアリスティックな考え方が、愛の暴力性への配慮だとしても僕にはどうも味気なく感じてしまう。


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しかしながら、数年間に渡って僕が熱心に取り組んでいた哲学カフェも、ある合意のもとで見ず知らずの人と顔を合わせるという点においては、出会い系となんら変わらないのかもしれない。


哲学カフェがサードプレイスとしての機能を遺憾無く発揮するのは、対話相手が家族や友達や同僚ではなく日常に関与していない人であるときだ。

そして、哲学的対話のやりとりは、当たり障りのない処世術的な会話とは一線を画すコミュニケーションであり、慣れていない者からすれば攻撃されていると感じてしまうことも少なくない。愛と同様に対話も暴力性を孕んでいる。だから無闇矢鱈と対話をしかけてはいけない。

このように、哲学カフェに“見ず知らずの人に合意のもとで出会う妥当性”をこしらえてやるのは簡単だけれど、依然として味気なさは伴ってくる。



数年前の僕は「対話の場が少なすぎる」と息巻いて、自分で哲学カフェを開催していた。今になってよく周りを見渡してみれば、ごく普通な生活の中にも無意識的に対話の欲求を満たせる場が無数に存在していると気づく。

美容院で美容師と、整体院で整体師と、バーでバーテンダーと、コーヒースタンドでバリスタと。

最近では僕も哲学カフェに赴くことも少なくなった。それは哲学的対話の欲求が減ったからではない。

直接的でなくとも満足できる方法を無自覚のうちに見つけていたからなのだろう。

それがより健全な状態だと断言するにはまだ至らない。ただ昔の自分とは別の解決策に流れ着いたことは確かだ。