僕のシコウ

僕のただの“嗜好”であり、同時に“至高”の“私考”。この“思考”は今はまだ“試行”中であるが、僕の“志向”に繋がっている。

物語のイデンシ



かれこれ10年近く聴いているラジオに、20世紀少年の作者である浦沢直樹がゲスト出演した。

彼はその番組内で「石ノ森章太郎サイボーグ009を描き切れず亡くなってしまったけれど、僕にはエヴァンゲリオンにその神との戦いの続きが描かれているように見える」と語っていた。

そういえば、自分にも作品の連続性に気付かされて酷く驚いた経験がある。自分を取り巻いていた別々の物語が不意に繋がる経験は、下手したら人生の醍醐味かもしれないと思うほどの快感を伴う。


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僕自身、活字への抵抗が小さい人間だという自負がある。待ち時間があると分かっていれば決まって本を持ち歩くし、積読を解体するために1日を使うこともある。それでも、物語性を盛り込むことで同情をねだる小説という形式は好まず、理由がない限り読むことはない。

ある日、小説好きの友人と本屋にふと立ち寄った際にそんな話をしてみたら、2017年ノーベル文学賞受賞者であるカズオイシグロを強く勧められた。その日はブッカー賞を獲った出世作日の名残り」を購入することにした。

僕をよく知る友達が勧めるだけあって、小説を苦手とする僕をも唆る何かがあった。記憶の不確実性に正直な主人公の語り口が、物語に更なるリアリティーを持たせていた。余韻に浸りながらもすぐにもうひとつ代表作である「わたしを離さないで」に取り掛かった。

まさに読み進めていた期間中に、何の気なしに観ていたアニメが最終回を迎えた。なんとその回のタイトルがそのまま「わたしを離さないで」だったのだ。

偶然としか言いようがない。世間でカズオイシグロが持て囃された時期ともラグがあったし、丁度そのタイミングでその作品を小説嫌いの僕が読んでいるなんて。

タイトルを知った瞬間に頭が急回転を始めて、アニメの中に「わたしを離さないで」のメタファーと思わしき箇所を幾つも弾き出した。

そう、ダーリンインザフランキスは、「わたしを離さないで」のオマージュに止まらずにその続きを独自に昇華させた作品だった。

意図せずして先に続きを知ってしまったので、小説を読み終えた後にまた初めからアニメを見返すことにした。そうしてみると、小説の終盤で語られるキーパーソン(マダム)の認識こそがダーリンインザフランキスの世界への扉だと分かった。

「わたしには別のものが見えたのですよ。新しい世界が足早にやってくる。科学が発達して効率もいい。古い病気に新しい治療法が見つかる。素晴らしい。でも無慈悲で残酷な世界でもある。そこにこの少女がいた。目を固く閉じて、胸に古い世界をしっかり抱きかかえている。心の中では消えつつある世界だとわかっているのに、それを抱きしめて離さないで離さないでと懇願している」


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「わたしを離さないで」は、読み進めていく中で作品世界の奇怪なありようが次第に見えてくる構成になっていた。最後までその理不尽な世界に明確な救いは訪れず、バッドエンドともハッピーエンドとも言えないオープンエンドは、行き場のないやるせなさを残した。

ダーリンインザフランキスは、運命の強制力・記憶の捏造・認識の齟齬・人間性の創造・性愛の価値という「わたしを離さないで」の主要なテーマをしっかりと受け継いでいた。そして、その続きをシェイプオブウォーターやエヴァンゲリオン、さらにはシンギュラリティからニーチェ的思想まで贅沢に織り交ぜた形で描いていたように僕の目には映った。

作中で、人間は進化の過程で性別・生殖機能・寿命・肉体を順に捨てていこうとする。その途中で主人公たちは“人間の人間たる特性とは何か”を問い続け、その運命を強いる神に抗うことになる。結局のところ、神との戦いは完全な終結を迎えず、ダーリンインザフランキスもまた「そして新たな物語へ」の一言で締められる。

こうして主人公を変えて作者を変えて物語はつながっていく。


浦沢直樹はこうも言っていた。

「もしかしたら人間が終わらすことのできないドラマがこの世にはあるのかもしれない」

そのひとつは神との抗争だろうか。