僕のシコウ

僕のただの“嗜好”であり、同時に“至高”の“私考”。この“思考”は今はまだ“試行”中であるが、僕の“志向”に繋がっている。

味のビガク



どちらも美しい味と書くからには、おいしいとうまいは同じような意味を持つ形容詞なのだろうか。

「おいしいはうまいを丁寧にした表現だ」と断言されてしまうとどうも違和感が残る。うまいからといって必ずしもおいしいとは限らないしその逆もまた然り。


牛丼は、美味いけど美味しくはない。

フレンチは、美味くないから美味しい。

とんかつは、美味すぎて美味しいかよくわからない。

日本酒は、美味いけどちゃんと美味しい。

パフェは、美味い上に美味しい。


口に入れた瞬間に感じ取れる快感はうまい証だ。カロリーが高ければ粗方はうまく感じるように舌は出来ている。生物的でわかりやすい感覚だと言えるだろう。

今や安くてうまいものはいくらでもあるけれど、安くておいしいものはなかなか見つけられない。

うますぎるとおいしさの判定が難しくなるから、おいしいものにはおいしいだけではなくうますぎない必要まである。その両立にコストがかかるのかもしれない。

そう考えると、比較的高価な食べ物をおいしいと形容する場面は多くなり、逆算的においしいはかしこまった丁寧な表現だと認識されるのも少しわかる気がする。


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コーヒーはうまくないからおいしい。人間はわざわざ快感から遠ざからなければ他の感覚に集中できない。

脳が正気を保っているからこそ、どこの国のどこの農園のどんな製法の豆をいつどう焙煎して誰がどうドリップしてどんな質感でどんな香りがするコーヒーかまで、冷静に考えられる。

少しでもうまくしようと、砂糖やミルクを入れると途端にそんなことはどうでもよくなってしまう。



はたまた、美味しくないものを食べることが美味しい状況もある。終電で帰って最寄駅で食べる牛丼や飲み会の一杯目のビールなら美味い上に美味しい。それは食事環境や精神状態や思い出も一種の美味しさに強く影響するからだ。

好きな人と食べれば何でもおいしい。奢ってもらったら何でもおいしい。それらもまた精神状態による補正で説明できるかもしれない。

ただし、あまりにも不味いと補正ではどうにもならない。高校生のときに毎日飲んでいた思い出のアップルティーは、もうおいしいと感じられなくなってしまった。

うますぎてもまずすぎても、おいしさを感じる妨げになる。


うまいは気持ち良いに、おいしいは面白いに近い感覚で、ふたつは独立した別の指標だとしてほぼ差し支えないだろう。その基本的な考え方では説明がつかない複雑で多様な関係性を紐解いていく遊びが、長らく僕を虜にしている。

食事は僕の人生における趣味であり続けるに違いない。