遺産のセイフ
東京オリンピックが近づいてきた。
チケット抽選は大盛り上がり、スカイツリーのライトアップではもうカウントダウンが始まっている。
自分の住んでいる都市でオリンピックが開催されるなんて一生で一回あるかどうかだということは分かっているけれど、それでもワクワクもドキドキもしない。
しかし、もし自分が1964年のオリンピックをその時代の一員として体験していたらしっかりと感動できていたとは確信している。
1964年の東京オリンピックでは地下鉄や新幹線や首都高を開通させ、目に見える大きなことやってのけた。このようにオリンピックに向けて国が発展していく感覚を肌で感じることこそが、オリンピックの醍醐味なのではないだろうか。
それに比べて、来たるオリンピックに向けては道端に朝顔を置いたり頭に日傘をさしたりするそうだ。インフラ整備で言えば主要駅の開発ぐらいで、大義名分を見つけたかのように元気よく駅ビルを育てているが、真新しい利便性を提供してくれるとは到底思えない。
この現状に日本の衰退が伝わってくると揶揄している人々が散見するが、それはそれでそう簡単に衰退を判断できるとも思わない。
急ぎ足で無理に進めた大きな計画は今までも必ず問題になってきた。日本橋の真上を通る首都高を地下化する景観回復事業は50年以上経った今でも度々話に上がっているし、そう考えれば“すごいこと”なんてしないでくれた方が平和であることには違いない。
1964年の平均年齢は約30歳、それに比べて2020年は約50歳。しっかりと学んで揃いも揃ってつまらない大人になってしまったようだ。
今回のオリンピックで言えば、新国立競技場のデザイン案がザハ・ハディドから隈研吾に途中変更された時点で、至極当然のように高揚感は無い。
人口減少が始まった日本においてはオリンピックに合わせたインフラ整備の必要性も薄くなってきているし、そもそもどの国でもメインスタジアムは大会後に上手く活用できず負の遺産になっている。今やオリンピックは祭りと称して世界中に負の遺産を作って回るイベントに成り下がった。
さらに言えば、オリンピックが一番の目標になるのは決まって不人気な発展途上の競技で、野球・サッカー・テニス・バスケにおいてはおざなりに扱われている。スポーツ最大の祭典とすら言い難い。
やはり今一度オリンピックの価値と扱いを見直す必要があると思う。
負の遺産、正の遺産。オリンピックに伴うインフラ整備に限らずとも、その査定はなかなかに難しい。
だからこそ、後から付いてくる符号に臆病になっていては、どんな遺産も残せないだろう。
激動の時代を生きたかったと強く思う。