僕のシコウ

僕のただの“嗜好”であり、同時に“至高”の“私考”。この“思考”は今はまだ“試行”中であるが、僕の“志向”に繋がっている。

刑罰といじめのセンビキ

久々に哲学カフェサークルonecafeに参加してきました。

インカレ学生哲学カフェサークルonecafe on Strikingly

実は僕は昨年度までこのサークルの代表を務めていて、汗と涙と血を注いで育ててきたと言っても過言ではありません。

 

onecafeは日本初のインカレ哲学カフェサークルです。
ゼミの一環として大学の研究室でやっているような哲学カフェなんかよりも、バリエーション豊かなバックグラウンドを持った学生が集まってくるので、必然的に面白いコミュニティーになっていると思います。

 

さてさて、今回のテーマは『刑罰といじめに線引きができるか』

“正しいとされる法律や憲法も結局のところは多数決で変更が可能な制度といえる。では同じく多数派の論理でなされるいじめとはどこが違うのだろうか。集団における意思決定のなかでどのプロセスが正義を生み出しているのだろうか。”


以下、僕の見解です。

刑罰といじめの相違点は、その目的。
日本における刑罰の目的は、目的刑論と応報刑論の折衷案である相対的応報刑論で、明らかにいじめの目的とは異なるとわかるはずだ。

 

逆に、刑罰といじめの共通点は、罰せられる対象が少数であるという構図。
その構図を保ったままサイズが大きくなっている。
罰の正当性は、対象が大きくなればなるほど、保証される。

 

今採用されている刑罰の正当性は、哲学カフェでもよく扱われるテーマで、特に死刑制度は激しい論争になる。
1990年代から先進国が廃止を進める風潮があるため、存知国である日本ではよく話にあがっている。
そもそも、他の国はこうしているから、自分たちもという考え方に意味があるのだろうか。


第三者から正当性を判断される状況は、
子供同士には全くそんな気がないのに先生や親がいじめ問題だと大げさに取り上げてしまうケースと構図が似ていると思う。

 

フィリピンの殺害容認問題も同じ形に見える。
ドゥテルテ大統領が就任してからの2ヶ月で、麻薬関係者が1000人殺されたことが世界中で問題視されている。
しかし、ドゥテルテ大統領がこのような性格であることは就任前から周知されていたわけで、急に暴挙を始めたわけではない。
就任時の支持率は、91%だ。
つまり、フィリピン内ではこの容認されているのだ。
そんな中、オバマ大統領や国連が口を出してきている。

 

絶対的な正義がない以上、法も一つに決めることはできない。
最大公約数は見つけられても、最大公倍数を全世界で採用することは非現実的だ。

 

その国の特徴や段階によって異なった法が採用されるべきで、自分の持ち合わせる倫理観と相性が良くないだけなら、あまり周りからガヤガヤ言うべきではないだろう。

 

また、このテーマの議論においては、多数決の正当性を話す必要がある。
最近の話で言えば、イギリスのEU離脱がいい例になると思う。
多数決、特に一人一票制度の正当性は、有権者全員が最低限のレベルに達していることが必要だろう。

 

たとえば、3人兄弟がいる家族で意見の分布が、
子供3人:親2人になった場合、どう考えても親の意見が正しいとされるだろう。

 

絶対的な多数決の地位も怪しくなってきている。