「君の名前で僕を呼んで」のイミ
君の名前で僕を呼んで、僕は僕の名前で君を呼ぶ。
初めて体を重ねたときにそんなことを囁かれたら、え?なんて言ったの?って聞き返してしまうと思う。どんなプレイなんだよって。
映画「君の名前で僕を呼んで」は第90回アカデミー賞で4部門にノミネート、そして見事に脚色賞を受賞した。
1983年の北イタリアを舞台に、17歳の少年エリオが大学教授の父親を手伝うためにやってきた男子大学院生オリヴァーに恋をする物語だ。
このタイトルの本質を考えるにあたって、ストーリーの中に入り込むのか、筆者の存在を考慮に入れるのかによって、その解釈は大きく変わってくる。
2人の関係性だけでシンプルに考えるなら、相手の名前であるかのように自分自身の名前を口にすることは高度な融合状態を助長する働きがある。
特に年齢差があり相手に劣等感を抱いている状態で尊敬心からくる恋愛感情だったからこそ、そのセリフは効力を強く発揮したのだろうと推測できる。
お互いの名前で呼び合うことは、異性に比べて同性相手なら幾分かは受け入れやすいかもしれない。
さて、本題はここから。
エリオ/オリヴァー/エリオの父親、この3人は全て筆者のアンドレ・アシマン自身なのではないかという興味深い指摘を見かけた。各登場人物の役柄が筆者の生い立ちと上手くマッチしている。筆者は若き日をイタリアで過ごし、舞台になっている80年代には大学院生、そして今は大学教授をしているのだ。
エリオの父親は筆者に一番近い人物像だ。簡単に言えば、今の自分。この物語はエリオとオリヴァーの恋愛沙汰がメインなのにも関わらず、ラスト前のシーンで長々と核心に触れるような言葉をエリオにかける父親の姿はとても違和感がある。しかし「今の自分が17歳の自分に直接話しかけられるなら」という想いを汲み取るとすれば合点が行く。エリオの父親という形で自分自身をそのまま物語の中に組み込んだのかもしれない。
オリヴァーはエリオの父に似た人生を歩むことがすでに暗示されている。それを裏付けるかのように、(映画では扱われていないが)小説の終盤でオリヴァーの息子がエリオという名前だと明かされる。
そして、エリオは父親やオリヴァーとは違う人生を歩む可能性をまだ持っていた頃の自分だ。
つまり、この物語は、今の自分(エリオの父親)が今に繋がる自分(オリヴァー)とまだ他の道が残された自分(エリオ)の関係性の揺らぎを見つめ直すことで、意図的に手放した可能性を想う深い後悔を描いているのではないだろうか。
タイトルはエリオの中で反芻された裏切りのセリフになる。
オリヴァーが結婚することとなり、2人の関係性は崩れてしまう。その後、15年間を経て直接会うことになる。
オリヴァー:僕たちは年を取っても、あの若者2人のことを話し続けるんだ。たまたま僕たちと同じ列車に乗り合わせた他人みたいに。
エリオ:僕はまだ、その若者を他人と呼ぶ心の準備ができていないのかもしれない。
過去の自分を別人と割り切れば、常に新しい自分として身軽でいられる。日々求められる一貫性という検問を通るのも比較的容易になるかもしれない。
過去は意図的に切り落とさなくても、痛みもなく壊死して崩れ落ちていってしまうものだ。人間が本来そういう生き物なのかもしれない。
だから、過去の自分に血を通わせ続けることは非常に難しい。
どの過去の自分も今の自分の一部として否定せずに自分であり続けてほしい。
欲張りで馬鹿げた考えかもしれないけれど、過去の自分とともに生きていきたい強く思った。
僕は今ちょうどオリヴァーと同い年。僕は17歳の僕を切り捨てずに生きていけるだろうか。