僕のシコウ

僕のただの“嗜好”であり、同時に“至高”の“私考”。この“思考”は今はまだ“試行”中であるが、僕の“志向”に繋がっている。

芸人のタワゴト


お笑い芸人という職業は、社会的地位と引き換えに規格外な“言論の自由”を獲得していた。

たとえ台本を自分で書いていようとも、芸の中での台詞が本人の価値観を順接的に示しているとは限らない。だから何を言ってもいい。漫才やコントはもちろん、平場のトークも同様である。

彼らにとって、発言が本心や事実であるかどうかは二の次で、笑わせること自体が仕事なのだ。


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少しでも遡れば、人種以外にも女性軽視や同性愛を差別的に扱ったネタで床の間が爆笑に包まれていた時代を簡単に見つけることができる。

それほどに笑いの題材はその時代のモラルと共に変容し続けていて、すでに古くなった題材をネタにすればただただ笑ってもらえない。

母親のことをメシと呼ぶ子供。つい1年前に賞レースの決勝番組で流れたコントだが、僕にとってはモラルがズレていて笑えなかった。言い換えれば、僕には冗談が通じなかった。しかし、ただそれだけだ。

お笑い芸人にとっては笑ってもらえなかった時点で失敗なのだから、不適切な発言だったと謝罪させることに意味はない。


執拗に失言を探されてしまう日本においては、特権的な言論の自由度からお笑い芸人はニュース番組でさえコメンテーターとして重宝されている。

しかし、お笑い芸人の社会的地位が急速に水準を凌駕した結果、バランスを保つかのように言論が縛られてきているようだ。

ごく自然な流れとはいえ、特異性を失いたくなければ、お笑い芸人はこの流れに乗ってはいけない。

お笑い芸人が気兼ねなく戯言を言える日が続きますように。