僕のシコウ

僕のただの“嗜好”であり、同時に“至高”の“私考”。この“思考”は今はまだ“試行”中であるが、僕の“志向”に繋がっている。

語彙のリョウイキ


先日、友達から共通の知り合いとのやりとりを聞かされた。「君は古めかしい形容詞をよく使うねって馬鹿にされたけど、逆にあいつはあいつでやたら新しい名詞を使ってくる」と不満そうに言っていた。

使用する語彙の幅が人によって大きく違っていて、それが広ければ広い人ほど偉いというのが世間の認識だと思う。その語彙力とやらを語数のみで測るのは些か無理があると感じていたので、出現した時代と品詞によって語彙を分類する手法には強く興味が持てた。


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まず“古めかしい形容詞”という表現が出てくるのは、そもそも日本語に形容詞が少ないからだろう。その中でも日常で口語的に使われる語彙はさらに数が限られてくる。だから、よく本を読む人が遠い昔に出版された文面から獲得した形容詞を口に出したときに、痛く古風な表現だと感じるのは自然なことかもしれない(。ちなみに僕はその友人が古めかしい形容詞を使うと思ったことはない)。

また現代人が名詞や動詞を形容詞に変える接尾語を乱用していることも、口に出して自然な形容詞の数を減らす要因になっていると思う。

っぽい・らしい・ましい・ったい・ない・こい・どい・じみる。たしかに便利には違いないが、いずれの接尾語を使っても悪態語や批判語になりやすい実状は言及される必要がある。

漢字表記では、名詞の後ろに力・性・式・率・界・化・観を加えたり前に超・駄・没を付けたりすれば、簡単に“新しい名詞”を作れるが、陳腐な響きに似合わない堅苦しさがある。

そこで、“新しい名詞”として外国語をそのまま横文字にして流用することになる。それはそれで途轍もなく胡散臭い。


そう考えを巡らせていくと八方を塞がれたかのように、日本語で語り合うことの限界を感じさせられてしまう。

より厳密に詳しく自分の考えを表現しようとして新しい言葉を作っても借りてきても、察する文化で培われた日本語では多くを語ろうとすればするほど、古めかしく、嫌味っぽく、胡散臭くなる。

欧米のローコンテクストなコミュニケーション形式を輸入してきたところで、ハイコンテクストである日本語を使っている以上、形式本来の効力を十分に得られない。

日本語でもできるミュニケーションの形ではなく、日本語だからこそできるコミュニケーションの形でいて論理性と確実性を兼ね備えた方法を探していこう。