僕のシコウ

僕のただの“嗜好”であり、同時に“至高”の“私考”。この“思考”は今はまだ“試行”中であるが、僕の“志向”に繋がっている。

自然淘汰のサイライ


今や都心でも田舎の匂いがする。
どうやら僕が都心の匂いだと感じていたものは、人が存在する匂いだったようだ。都会にも緑なら沢山あるわけで、当然と言えば当然なのかもしれない。

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誰かを揶揄するために多用されている“事の重大さ”をどうやって測ればよいのか、僕は未だによくわかっていない。死者数なのか、経済損失なのか。
「自分は良くても他の人に移ったらどう責任を取るのか」と世論の総意だと疑わず声高らかに叫ぶ声が、区役所からの放送のように何重にも反射しては窓をすりぬけ耳に入ってくる。
何回言ったら分かるんだと言われても、何回言ったら何回言っても分からない人がいると分かるんだと思うばかりなのだが、そこから別の行動に移した人々が自粛警察として新たな問題を生んでいる。
現段階ではあくまで自粛。不要不急な事柄が一致している前提で話を進めてはいけない。
自粛という曖昧な言葉が生み出した自由度によって、他人の生のために己の生を強制されているという感覚が強まっている。

多様性を重んじる時世が退けてきた自然淘汰の再来に身を任せることも許されない。積極的に命を投げ出したいわけではないが、人間社会では自分の命さえ自分だけの物ではないのだと改めて実感している。
首に巻き付いた鎖が実体を獲得し、増し続けている重さは立っていられないところまで来てしまった。


早く日常が戻ってきてほしいと思う一方、自粛期間でどれだけ実のあることをしたかを自慢し合う日々が訪れるのかと思うと、それはそれで気が滅入ってしまう。
この期間だからこそ出来ることをした方が他者評価は上がるのだろうけれども、僕は高得点は欲していないので「時間がないからやっていない」と言い訳していた物事を片すくらいで済ませようと思っている。
とりあえず、この期間でさえ消化できなかった積読は、間違いなく一生読まれることがないから、いっそのこと捨ててしまおう。