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僕のシコウ

僕のただの“嗜好”であり、同時に“至高”の“私考”。この“思考”は今はまだ“試行”中であるが、僕の“志向”に繋がっている。

トラウマのコクフク

 

闇が深いトラウマを克服するには、似たトラウマを持っている者同士で慰め合うしかない。


寝れない夜に何度も何度も考え込んだトラウマの回避方法を実践して各自が体験することで記憶が上塗りされる。


もちろんドス黒い下地を完全になかったことにはできないが、少なくとも人生を支配されることはなくなる。


しかし、まだトラウマを自分で認識しきれていない人や自分とトラウマの深さが異なる人を相手に選んでしまった場合は、むしろ更なるトラウマを作り出してしまう。


リスクを取らないように相手のチョイスには細心の注意を払う必要があるが、 自分に似た人を見つけると勝手な仲間意識から「救いたい(救ってほしい)」という気持ちが先走ってしまうものだ。

 

自分のトラウマが珍しければ珍しいほど。

 

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モアナに苦言

アナと雪の女王』『ズートピア』に続くディズニー・アニメーション最新作『モアナと伝説の海』を早速みてきました。


〜あらすじ〜
“全能の女神テフィティのハートが半神マウイによって奪われたことにより、やがて島の平和は脅かされるようになる。どこかともなく闇が訪れ、果物は果物は腐り、魚は獲れなくなり、生活は危機的状況にあった。
そんな中、生まれつき海を愛し海に愛される少女モアナは、祖母のタラからテフィティのハートを託され、マウイを探すように言われる。
旅の途中、彼女はマウイを見つけ一緒に旅をすることに。しかし二人は旅路で大きくて危険な生き物や不思議な出来事に次々と見舞われていく。”

 

〜映画の基本情報〜
『アラジン』『リトル・マーメイド』を生んできたロン・クレメンツ、ジョン・マスカーの名コンビが共同監督・脚本を務め、『ライオン・キング』『ターザン』に楽曲を提供したマーク・マンシーナが作曲を担当。力の入れようは今までのヒット作に引けを取らない。


アカデミー賞歌唱部門にもノミネートされた主題歌『How Far I’ll Go』は、島の外に出たことのないモアナがまだ見ぬ世界への憧れを歌った曲で、リトル・マーメイドの劇中歌『Part of Your World』を彷彿とさせる。


モアナのモデルはジブリ作品のキャラクターであると監督が認めていて、周りに流されず自分の考えで行動していく点と、自然との距離感や関係性を模倣しているらしい。つまり、日本の映画市場がターゲットにされている!

 

〜モアナって流行る?〜
たぶん爆発的大ヒットはしないです。
最近流行った『アナと雪の女王』『ズートピア』はメッセージ性が強いが、それに比べてモアナはだいぶゆるい。
“人間誰しもが計り知れない可能性を持っているが、勇気を出して一歩踏み出しても大きな壁にぶち当たったときには葛藤したり自信を失ったりする。傷つき悩み迷った時にも、自分の心の声に従って生きよう。”
これではありきたりなメッセージで真新しさがないと思う。
ミュージカル調はディズニーのお家芸だが、主題歌が繰り返し歌詞を変えて歌われるのは珍しい。正直な話、主題歌以外の曲はパッとしない。
ゆるやかな南国の雰囲気を出すためか、ディズニーらしい軽快な展開ではなかった。女神テフィティの描写は『インサイド・ヘッド』の同時上映『南の島のラブソング』から着想を得たのかもしれない。引き伸ばして作られたのかも。

キャラクターデザインもあまり魅力的じゃない。ストーリーの兼ね合いで、サブキャラがほぼ敵であるのも影響しているだろう。
ペット枠のヘイヘイは、『ファインディング・ドリー』のベッキーとキャラが丸かぶりしているし、ブタのプアを売り出すべきだったような…。


とはいうものの、今回もCG技術はさらに進化していました。
綺麗な海と髪の質感はさらに磨きがかかっていました!

 

〜おまけ〜

ディズニー映画の原題邦題問題でいえば、今回はまだマシ。
Frozen←→アナと雪の女王
Ratatouille←→レミーのおいしいレストラン 
Up←→カールじいさんの空飛ぶ家 
Brave←→メリダとおそろしの森
Moana←→モアナと伝説の海 
「モアナ」はハワイ語で海という意味で、原題はヒロインの名前でもあり、物語の舞台、地域を一単語で表していてオシャンティーですね。

 

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上野のモリ

3/11、上野の森美術館で『VOCA展2017 現代美術の展望─新しい平面の作家たち』が始まりました。

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VOCA展は、全国の美術館学芸員、ジャーナリスト、研究者などが40才以下の若手作家の推薦をして、その作家が平面作品の新作を出品するという方式により、全国各地から未知の優れた才能を紹介する展示会です。


初日は、受賞者お二人によるトークショーが行われました。

4つのオブジェと1つの視点 上田良さん(VOCA奨励賞)
オブジェを作って撮影して最終的には写真作品。
「任意の視点から見よ」と差し出された平板なイメージは、ボリューム、空間、重力といった彫刻的ボキャブラリーから解放されていて、色、形、肌理などディテールへと視線を誘う。
4つで1つの組み作品で、全体でも1点でも作品として見れるようになっている。
素材選びで自分の好きなものだけを選ばないように大学のゴミ箱から拾い集めている。
オブジェを作る段階では、素材を組み合わせた結果、名前を与えられる何かにならないように気をつけている。
そうやって作ったオブジャは自立できないと気づき、一瞬で崩れる物でも形を保つことができる写真に行き着いた。
聴衆がオブジェの大きさを質問した際に「拡大と縮小ができることこそが写真作品の面白さなので内緒。ぜひ、ご自分で想像してみてください」とおっしゃっていたのが印象的でした。


ANTICAMERA OF THE EYE 村上華子さん(佳作賞)
もともと作品が発表される仕組みに興味があり、東京大学文学部美学科に在学していた。駒場祭で、100年前の写真が見つかったという設定で架空の展覧会を作ろうと企画し、初めて作品を出展した。
卒業後に院から東京芸大に進学、それからフランスに渡り作品制作に励んでいる。
フランスは写真が発明された国でもあり、技術自体を財産として残そうという働きかけが強く、写真を学びたい人が学びやすい環境が作られているそう。
今回の受賞作品は、ルミエール兄弟が発明したオートクロームを使用している。
昔の技法に触れた時に何をしようか考えた結果、何もしないことを選択したシンプルな作りの作品になっている。

 

さらに『金氏徹平展「記号は記号ではない」』が同時開催されています。
昨年、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館で行われた金氏徹平のメルカトル・メンブレンに出された作品が見れます!
金氏徹平にプラスして今年のVOCA展出展者である加納俊輔さん、田中秀和さん、東畠孝子さんの4人によるトークセッションが行われました。
毎年この時期になると賞が取れなかったことにイラッとするから、自分と同様に何も賞をもらってない京都人を集めたそうです。
前半は、反骨精神を鍛え上げてくれたVOCA展の思い出を振り返るような流れでした。

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金氏徹平の作品といえば、コンビニ人間の表紙で初めて見た人も多いと思います。
僕自身も大阪の国立国際美術館で行われた森村泰昌展でみた動画版のTowerが大好きで、初めて生でお話を聞くことができて嬉しかったです。
金氏徹平さんは、無意識性と偶然性をどうコントロールするかに関心があり、化粧品を絵具に見立ててaction paintingしたかのようなイメージの動かないのに流動的に見える作品を作成しています。

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雑誌の切り抜きを一回スキャンしてデータ化することでより抽象的な次元に昇華し、木の板に貼り付けて厚みを出しフィジカルな要素を取り入れている。
「素材を手に入れるために自分で写真を撮ることは絶対にしない。
それをやりだすとどんどん内に入っていってしまう。
自分と外とつながることが大事で、欲を言えばお金を払って買ってくるとより良い」

というポリシーがあるそうです。

f:id:bokunosikou:20170315004838j:plain観覧料は一般600円/大学生500円/高校生以下無料で、3/30までやっています。本当にオススメ、ぜひ!

 

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人間関係のコスパ

インカレ哲学カフェサークルonecafe、第111回の活動「ギブアンドテイクだけが人間関係か」のまとめ&考察。

市場経済という前提は、私たちの価値基準を交換関係の上に成立させた。私たちの行動は行動自体の効果と費用の利潤計算を軸にしている。他者との関わりでその原則が適用されたなら、人間関係は全て費用対効果で結びつけられるのか。無償の愛は存在するのか。”

今回のテーマ文に含まれる問いは、

  1. 人間関係はすべて費用対効果で結びつけられるのか
  2.  無償の愛は存在するのか

の2つ。
(ともにYes or Noで答えが出せるクローズドクエスチョンであり、哲学カフェとしては答えが決められないオープンクエスチョンが良いとされているので、あまり褒められた詳細文の書き方とは言えない)

1. 人間関係はすべて費用対効果で結びつけられるのか
費用対効果とはいわゆるコストパフォーマンスであり、費用に対して効果が大きいかを計算して、行動を起こすかどうかを決める際の判断材料にする。
benefit by cost つまりB/Cとも呼ばれることからもわかるように、費用と効果を同じ単位に換算したあとに割り算をして、その結果が1を越えれば行動に移すことが良いとされるわけである。
単純明快な計算式ではあるが、問題は「費用と効果を同じ単位に換算する」の段階にある。
実際には、どこまでを費用や効果に含めるか、どうやって数値化するか、どうやって同じ単位に換算するのかと問題が尽きない。
そこで大体の場合は、費用を多めに、効果を少なめに見積もっている。
つまり費用対効果の計算は最低基準を上回っているかを判断するためのものであって、費用も効果も真値には程遠い。
今回のテーマである人間関係においてはさらに難しいはずだ。
相手の特性をすべて同じ単位のパフォーマンスにするなんてできるわけがない。
⇒No

2. 無償の愛は存在するのか
愛をもらえば、何かしらの形で返したくなるのが人間という生き物だ。
その返報性を使って、何かを返してもらう前提で好意を示す人ももちろんいる。
それを叩く風潮があるのは、無償の愛や無条件の愛こそが至高の愛であるという一般的な共通感覚があるからだろう。
しかし、損得の関係性を見出せるからといって無償の愛ではないと側から指摘することは不毛な行為である。
なぜなら、客観的に無償の愛だと定義できる愛は存在しえないからだ。
当事者間で存在が認識されているならば、無償の愛は間違いなく存在していると言っていいだろう。
⇒Yes

人間関係はゼロサムゲームではない。常にwin-win

 

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人工知能のコイビト

以前から興味があった西千葉哲学カフェに参加してきた。
西千葉哲学カフェは、大阪大学博士課程特任研究員で「Jポップで考える哲学 自分を問い直すための15曲 (講談社文庫)」の著者でもある戸谷洋志さんが主催している哲学カフェで、1ヶ月に1回の頻度で西千葉駅から徒歩5分のMOONLIGHT BOOKSTOREで行なわれている。
学生限定のonecafeと違い参加者の年齢層が広く、社会人と学生が半分半分、男女比3:1、半分弱が新規といったところ。西千葉という立地からか、千葉大生が参加していたのが印象的だった。
10人を越える参加者を1人でファシリテーションするためにコミュニケーションボール&挙手制の形式を採用していた。
スタンダードな進行形式とは裏腹に、毎回ポップでタイムリーなテーマを扱っている前衛的な哲学カフェである。

今回は『人工知能を愛せるのか?』というやや現代的なテーマだったせいか参加者で予備知識の量に差があり、話が噛み合わない場面が多く見られた。
ファシリテーターも過干渉するタイプでもなく参加者に委ねられる部分が多かったので、前の人の意見に絡めた話をしている体をとってはいるものの全く関係ないことを発言をしている人が目立っていた。
自主的に挙手をしなければ発言をする機会はやってこないので、話し慣れている人がどんどん話していく。
このような“常連による占拠”はどの哲学カフェでも見られる傾向だろう。
しかしながら、主催者の人望の影響からか概ね民度は高かったと思う。


〜個人的なまとめ〜
愛には種類がある。人間に対する愛だけに限ったとしても、エーリッヒ・フロムの分類を借りるとすれば、母性愛、父性愛、兄弟愛、異性愛などに分けることができるし、それよりもさらに広げれば、ペットへの愛、所有物(無機物)への愛、神への愛など切りがない。
参加者の話を聞いていると大体の人が「愛する=異性愛」を前提として話しているように感じた。
たしかに成立が一番難しいと予想される愛は異性愛で、異性愛が成立するならそれ以外の愛も成立する可能性が高い。

人工知能が恋人になり得るのかという問いに答えるべく、まず人工知能と人間の違いを列挙する必要があった。
肉体、有限性、創造性、倫理観などが話題に上がったが、どれも愛を持つための絶対的な条件とは言えず反例がすぐに見つかった。
そもそも異性愛の対象に全員が共通して求める条件が存在しないのではないか。
恋人の最低条件を人工知能がパスできるのかは、人による。
人工知能を愛せるかを考えることは、自分の恋愛観を見つめ直すことができる問いだった。

 

今回の会で面白かったのは、人間に近づこうとする無機物の存在を話すと、人間信者と呼べる人の存在が露見することだった。
人間は神に創造された高尚な生き物であって、人工知能なんかにはできないことがたくさんあるはずという決めつけをもとに話す人が多かった。
一つずつ、人工知能が再現している人間らしさを説明するも、なかなか飲み込んではもらえなかった。

また、愛信者もたくさんいた。
最初からプログラムで意図された行動は愛ではないらしい。
人間が人に与える愛も意図されていることが多いのに。
コントロールされることへ異常に拒否反応を示すタイプの人たちなのだろう。

 

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2人の画家を追うテンジカイ

昨年の秋、上野の東京都美術館で開かれたゴッホゴーギャン
二人の軌跡を手紙で追う独特な展示形式に多くの来場者が引き込まれた。

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企画展は、画家の名前、時代、ジャンル、貯蔵する美術館のどれかをタイトルにつける。
その中で、画家の名前を冠する展示会といえば、一人の画家を取り上げ、初期から晩年まで何個かの時期に分けて作風の移り変わりを見ていくスタイルがスタンダードだろう。

一人ではなく、同じ時代に生き、友情を築いた二人の画家を取り上げる手法は、正に革新的だった。
従来の手法では影響を受けたとされる画家と抱き合わせて展示することが多いが、この展示方法では画風がまったく似つかない方が繋がりに意外性が生まれて面白い。
巨匠と言われるような画家同士の意外な繋がりを解き明かせば、ストーリー性が伴いやすい。
ゴッホゴーギャン展では、音声ガイドに人気な声優を起用して手紙の読み上げをしてくれるシステムがあった。
そうなれば、もはや一種の映画を見ているような感覚に近かった。
目の前にあるこの絵にはこんなエピソードあったと思うことで、当然没入度も上がった。

実は、この斬新な展示形式が今流行ってきている。
1/14から新橋のパナソニックミュージアムで、マティスとルオー展が始まった。
マティスもルオーも特段好きというわけではないが、さっそく行ってきた。

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もちろん2人の作品は見たことがあり、画風もなんとなく理解していた。
しかし、僕が知った気になっていたのは画風が洗練された晩年の作品だけだったらしい。
若かりし頃の作品でも、マティスの裸婦像は美しいし、ルオーの黒はどこまでも力強かった。
理解が深まったな、うんうん。

あれ?個人の企画展を同時に見てるだけじゃね?

ゴッホゴーギャン展で飲み込まれたあの感覚がない。
二人の軌跡を手紙で追う形式を採用するだけでは不十分なのか。
何が違かったのか考えてみると、それは2人の関係性の安定感だった。

マティスとルオーはパリの国立美術学校の同級生で、現存する一番古い手紙はすでに卒業した後。
つまり、この展示会は揺るぎない友情が形成されている状態からスタートする。で、最後まで仲良し。

それに比べて、ゴッホゴーギャンの関係性は幾度となく揺れ動く。

メンヘラを極めるゴッホ
奇怪な行動にさすがに疲れて出て行くゴーギャン
精神病棟に送られるゴッホ
お互いに尊敬しながらも距離感を保つ。
ゴッホが亡くなったあとに、向日葵をテーマに作品を描くゴーギャン
映画でもおかしくないほど濃密なストーリーだ。

 二人の軌跡を手紙で追う展示形式に大きな可能性が秘められているのは確かだが、成功するには「画風が似ていない」以外に「関係が安定していない」ことが必要だ。

さて、3/18からは箱根のポーラ美術で、ピカソシャガールが開かれる。二つの条件を満たしているから期待大だ。
誰か一緒にいこう。

 

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アドラー心理学のシンリャク

血反吐を吐きながら読み切った…。

一度閉じたら次開くには相当のエネルギーが必要になるから、トイレに行くのも我慢して一気に読み切った、褒めてくれ…。
大ヒットした“嫌われる勇気”の続編、“幸せになる勇気”

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嫌われる勇気を初めて読んだのは遥か昔のことだと思う。

ベストセラーというだけの理由で手にとってみたが、

今までに感じたことのない苛立ちで眉をひそめ肘をつきながら読んだのを忘れられない。
そして、晴れて僕の嫌いな本ランキング、二位に圧倒的な差をつけて暫定一位に輝いた。

なぜこんなに腹が立つのか、なぜこんなに世間に受け入れられているのか。

その問いに答えを出すために、アドラー心理学関連の本を5〜6冊読んだり、嫌われる勇気を題材に自分でブックカフェを開催したりもした。

 

◆なぜこんなに僕は腹が立つのか

それは、恐ろしく共感できる部分もあるのにその応用方法が全くもって腑に落ちないから。
事実、僕もアドラーの言う「すべての悩みは、対人関係の悩みである」には完全に賛成だし、課題の分離という考え方も好きだ。
しかし、程度は違えどどの本でも具体策は空虚な理想論の範囲を出ない。

 

◆なぜこんなに世間に受け入れられているのか

それは、アドラーの教えに従えば人間関係の問題を半ば強引に解決できるから。
しかも、人を切り捨てるというかなり簡単なやり方で。

 

どちらの問いにも自分で納得できる水準の答えを見つけ、僕の中でアドラー心理学との戦争は終わったはずだった。

だから、“幸せになる勇気”が出版されたときもガン無視だったのだけれど、出版業界を越えてテレビ業界にまで侵略してくるとなれば、次の戦いに向けて万全の準備をしなければならない。

下手すれば、自己啓発本を自発的に読む人よりも、何の気無しにドラマを観る人の方がアドラー心理学との親和性が高いかもしれない。
アドラー心理学は、すべての人間が漠然と抱える悩みに対して簡単な対策を教えてくれるから。
これ以上広まるとすれば、警鐘を鳴らさざるを得ない。

 

『人に嫌われるって意外と辛いことでもないから、変に気を使ってないでどんどん相手のせいにして切っていこうぜ!まぁやり方は任せるわ』

という内容の“嫌われる勇気”に比べ“幸せになる勇気”は、

『この前はあんなこと言ったけど、アドラー心理学を誤解しないでね!やり方もうちょい具体的に教えるぞ』ってかんじ。

つまり、続編の“幸せになる勇気”で、狂信的な読者とアンチ読者に向けて同時に「誤解しているよ」とメッセージを送る形になっている。
前作に比べれば誤解されにくい書き方になってはいるが、やはり内容自体は受け入れられないし、具体策といっても結局つかえる範囲はかなり狭く読者に実用的とは言えないだろう。

 

僕に言わせれば、アドラー心理学は諦めの哲学。
悩みがなくなることを人間の成長とするなら、アドラー心理学通りに生きる意味は大きい。
しかし、アドラーの思想が蔓延すれば、
人に対して期待せず、二人の間にできた課題をすべて相手に投げつけ、簡単に縁を切る冷たい人間が増えるに違いない。

傷つかない心を手に入れる代わりに、人を傷つける。人を癒す力も失う。
それを成長と呼べるのだろうか。
アドラー心理学は、自分さえよければいいという考えがチラついている。究極的に人に冷たい。

人は冷たくされれば、自分も徐々に冷たくなっていくものだ。

このままアドラー心理学の侵略を許せば、人間関係の氷河期が訪れるだろう。

後半の章では“自由からの逃走”“愛するということ”で有名なエーリッヒ・フロムの言葉を引用することでその冷たさを打ち消そうとしていて、なんだかその手口にも萎えてしまった。

 

とは言うものの、流行っている本を読むことは内容の是非以前に今の世間を知るために大切なことだ。

どうして世間に受け入れられているのか、広まったらどういう影響が出るのかを考えながら流行りの自己啓発本を読めば、思考のトレンドが理解できる。

そのトレンドをファッション感覚で取り入れている人の扱いを事前に考えておけるメリットはあまりにも大きい。

 

まだアドラー心理学の本を読んだことがない人には、ぜひとも(幸せになる勇気ではなく)嫌われる勇気を読んでみてほしい。

自己啓発本を読むときの鉄則「批判的に読む」を忘れずに。

 

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