僕のシコウ

僕のただの“嗜好”であり、同時に“至高”の“私考”。この“思考”は今はまだ“試行”中であるが、僕の“志向”に繋がっている。

二分法

二分法は、コインのように表でないなら裏、裏でないなら表という関係が成り立つ場合に使うことが可能である。

つまり厚さが無視できる場合を想定しているわけだから、表と裏のどちらでもない側面が広くなればなるほど、適応する妥当性が下がることになる。

 

3つ以上の選択肢から1つ選ぶときは、1度2つに絞るためにトーナメント形式を使う人と使わない人がいる。
トーナメント形式を使っていても予選と決勝のタイムラグがあまりにも小さくて認知されていないのかもしれない。
トーナメント形式というよりは、なんらかの条件による足切りが行われることもありえる。

 

気持ちが良いから、白黒ハッキリさせるのだろうか。
「とても好き」と、「どちらかといえば好き」を同じ「好き」として認識していることによる不具合はよく現れる。

つまり、二分法によって曖昧さを無くそうとした結果、むしろ曖昧になっているのだ。

二分法の繰り返しで出てくる解は画素数が低くて、使える場面が限られる。

 

きのこの山たけのこの里の論争を見るとわかるように、2つに分けることで敵と味方がハッキリして対立が起きやすくなる。
前提として、チョコ菓子を食べる、両方は食べれないなどの条件が含まれているはずなのに、無意識化で無視されている。両立が可能なら、その議論に意味はないのではないか。
それとも、両立が可能でも順位をつける意味はあるのか。順位を決める必要が出てきたときに決めれば問題ないだろう。


二分されたものに所属することによって、アイデンティティをお手軽に得られる。
こだわりがないものほど安易に決める。
最適解を求めるのか、一定以上の解を求めるのか。一定以上であればいいなら、そんなにコストをかける必要はない。
最適解を求めるなら、一回の二分法では意思決定できない。


意識的に黒に行って白を見るより、無意識的にグレーから黒側に流れているのに中立地点から白を見たつもりになっている方が怖い。

中立という立場は不安定。中立がどこかなんて明確に定義できないから、中立は中立でない。
二分法と、一軸的な評価は似ている。二分法は境目を、一軸的評価は二点の座標を決めなくてはならない。