僕のシコウ

僕のただの“嗜好”であり、同時に“至高”の“私考”。この“思考”は今はまだ“試行”中であるが、僕の“志向”に繋がっている。

哲学カフェ「他者の関わらない幸/不幸はあるのか?」

どうも、ゆいです。

Ante-tableの12th tableに参加してきました!Ante-tableは、さろんラボの協力で月一回定期的に開催されているそうです。
今回の参加者は、司会を含めて8人哲学カフェ自体が初めての人は1人もいなくて、常連+哲学カフェ巡りが趣味の人で構成されていました。
哲学カフェとしては珍しく、1つも絶対的なルールを設けていないそうで、「説明を求めるかもしれないが別に専門用語を使っても構わない」とおっしゃっていました。
全体が2時間の哲学カフェで、ちょうど真ん中にブレイクタイムを設け、そこで関連資料を配布するスタイル。その資料はA4片面一枚、専門的な内容が載っているわけではなくテーマに沿った会話文でした。


さてさて、今回のテーマは「『他者』の関わらない幸/不幸はあるのか?」でした。
・他者が関わる・関わらないの基準はどこにおくか
・他者に認められないと幸せと言えないのか
・他者が関わる幸せは質が低いのか
などが主な話題になりました。

 

僕の考えでは、他者が“関わらない”幸/不幸は1つも存在しないけれど、他者の存在を“意識していない“幸/不幸は少なからず存在する。
プラスとマイナスのどちらかで言えばプラスという精神状態だったとしても、幸せだなんて大層なほどではないこともある。
そもそも、幸せや不幸せの認定という行為は日常的に行わない人が大半だろう。
例えば、今回の哲学カフェの入りのように「最近、幸せだったことは何ですか?」と聞かれると、他者に理解してもらえるだろうと踏んでいる幸せの例を出そうする。つまりハードルが高いはず。
「本来、幸せかどうかの判定は本人の中で感覚的・自動的にされてしまうものであって、理論的に根拠を求める必要はない」という意見も理解はできるが自分の幸せを口に出して人に伝えるとなれば、ある程度の根拠を見出そうとするのが一般的なのではないだろうか。
その根拠の一種として“客観性”があって、他者に幸せだと認定してもらいたがるのは客観性を獲得したいからという側面があるのかもしれない。
そう考えると、自分の幸せをSNSで発信する見栄はり合戦も否定的には見れない。
しかしながら、幸せの根拠を他者にだけ依存していては幸せだと言えることが減ってしまう気がする。
幸せを多く感じたいのであれば、自己完結的な幸せの根拠をたくさん見つけておかないといけない

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今回お邪魔したのは、神楽坂駅から徒歩1分のギャラリー&カフェ ミカドさん。
スタッフ一押しの野イチゴソーダが甘酸っぱくて美味しかったです。


とりあえず間違えなく言えるのは、幸せって何だろう?と思いをめぐらせながら寝るのは幸せだということ!

 

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