僕のシコウ

僕のただの“嗜好”であり、同時に“至高”の“私考”。この“思考”は今はまだ“試行”中であるが、僕の“志向”に繋がっている。

初めてのコジンカイサイ

今日、初めて個人で哲学カフェを開催しました。

参加者は僕を含めて6人。

ファシリテーションをしながら自分の意見を十分に言うには、丁度良い人数でした。

個人開催なら知り合いしか来てくれないだろうと踏んでいたのですが、蓋を開けてみたら半数以上は面識のない方で驚きました。

下は高校生から上は社会人までと年齢にも幅があって、多様な意見が飛び交う面白い会になりました。

 

さて、今回扱ったテーマは『病気は″しょうがない″のか』。

病名をラベルとして貼り付けることでそれ以上の理解を放棄し、病気への誤解を含んだまま思考停止しているのではないか、という問いを中心にみんなで考えていった。

ここで言う病気は、インフルエンザなどの短期的に治るものではなく、長年に渡って付き合って行かなければならないものを指す。

長年付き合ってきた病気は、趣味や出身地と同様に自己紹介のときに自然と言うべき内容にすらなる。

Twitterのbioにあたかもステータスのように病名を並べる行為もその延長線上にあるようだ。

しかしながら、そのメッセージも同じ境遇にある人に対してではなく健常者に向けているのであれば、あまり意味があるとは思えない。

というのも、「鬱だわ〜」「メンヘラかよw」「アスペじゃん」など、病名をネタっぽく扱う文化が根付いてしまっている中では、病名を伝えることに有益な影響を期待できないからだ。

ワードとして病名が一人歩きしている状態から脱却していく必要がある。

病名をラベルとして貼られることで、できない努力を強要されなくなると同時に、できる努力までも禁止されて、期待もしてもらえなくなってしまう。

それが悲しくて親しい間柄になれば、病名以上に精度の高い個人の症状を理解してもらいたくなる。

しかし、その理解にかかるコストは膨大なので自分のためにそこまで尽力してくれる人なのかは常に考えなくてはならない。

 

以下、他に出た意見の抜粋です。

 

・何を世間で病気とするかは、時代によって変わる。セクシャルマイノリティーが病気とされた時代があるように。

 

・健常者は、障がい者が何でもかんでも病気のせいにできることに嫉妬している。

 

・健常者と障がい者が一緒にいる場で、同じように対応するのは難しい。障がい者に対してウェイトを置きすぎに円滑にコミュニケーションを進めるシステムを作りたい。

 

・病気を持っている本人だけでなく周囲も、何かが出来ないことの根拠を病気に置きがち。

 

・生理的嫌悪感を禁止することはできないが、それを顔や行動に反映させないことはモラル観の範疇。

 

・病名を公言する側も病名を一方的に伝えるだけで心地よい環境作りをしてもらえると勘違いしている人が多い。

 

・メンヘラのメンヘラによるメンヘラのためのWebメディアであるメンヘラ.JP(http://menhera.jp)は、精神障害を持つ人のためのライフハックが載っていて参考になる。

 

 

次回はもう少しポップなテーマにして、リアルタイムでツイキャス配信しようかと計画中です。

非公式哲学カフェでは、onecafeとは異なり大学生だけでなく社会人の参加も大歓迎です。

興味がある方は、ぜひ次回ご参加ください。

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