僕のシコウ

僕のただの“嗜好”であり、同時に“至高”の“私考”。この“思考”は今はまだ“試行”中であるが、僕の“志向”に繋がっている。

経験のシンビガン


同じ絵画を見ても、同じ合唱曲を聴いても、同じ空気を吸っても、同じパフェを食べても、同じ手を触っても。その受け取り方は人によって異なる。

そうだとすれば、同じ経験で何かを推し量ろうとする経験至上主義にはどれほどの妥当性があるのだろうか。


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自分の時間と同様に人の時間を安く見積もっている上の世代は「騙されたと思って一回やってみなさい」と古めかしい経験を気軽に薦めてくる。

コストを肩代わりする気遣いさえない。

話がわからないのは一度も経験をしていないからだと乱暴に線を引き、逆に一度でも経験していれば肩を組んで笑いかけてくる。

三年働いたら、結婚したら、子供ができたら。実際にそうしたところで、それは同じ経験をしたことにはならない。学びもまた人それぞれだ。

何事にも多様な選択肢があり時間の有限性を痛感せざるを得ないこの時代においては、ある1つの経験をするかしないかを考えるだけでは事足りず、どの経験をする代わりにどの経験をしないかまで考える必要がある。

端的に言えば、なんでもかんでも経験してられるほど暇じゃない。

僕は経験至上主義者を牽制するためだけに興味の唆られない経験をしてやる気はない。より質が高いと踏んでいる経験が数え切れないほど待ち受けているから。


人生経験、経験人数、経験値。胡散臭い言葉ばかりだ。

やはり経験そのものでは人を測ることはできない。何を経験するかよりは、その経験から何を学ぶか、どれだけ学べるかの方がまだ幾分かマシな基準になり得ると思う。

その感性と学習率を鍛えるために、最初のステップとして経験の絶対量を増やす手法はもちろん有効だが、それでも量から質へ移行する術を知らないと簡単に人生が食い潰されてしまう。

今や、質の高い経験を見抜く力無しには出歩けない状況だ。