僕のシコウ

僕のただの“嗜好”であり、同時に“至高”の“私考”。この“思考”は今はまだ“試行”中であるが、僕の“志向”に繋がっている。

人間関係のコスパ

インカレ哲学カフェサークルonecafe、第111回の活動「ギブアンドテイクだけが人間関係か」のまとめ&考察。

市場経済という前提は、私たちの価値基準を交換関係の上に成立させた。私たちの行動は行動自体の効果と費用の利潤計算を軸にしている。他者との関わりでその原則が適用されたなら、人間関係は全て費用対効果で結びつけられるのか。無償の愛は存在するのか。”

今回のテーマ文に含まれる問いは、

  1. 人間関係はすべて費用対効果で結びつけられるのか
  2.  無償の愛は存在するのか

の2つ。
(ともにYes or Noで答えが出せるクローズドクエスチョンであり、哲学カフェとしては答えが決められないオープンクエスチョンが良いとされているので、あまり褒められた詳細文の書き方とは言えない)

1. 人間関係はすべて費用対効果で結びつけられるのか
費用対効果とはいわゆるコストパフォーマンスであり、費用に対して効果が大きいかを計算して、行動を起こすかどうかを決める際の判断材料にする。
benefit by cost つまりB/Cとも呼ばれることからもわかるように、費用と効果を同じ単位に換算したあとに割り算をして、その結果が1を越えれば行動に移すことが良いとされるわけである。
単純明快な計算式ではあるが、問題は「費用と効果を同じ単位に換算する」の段階にある。
実際には、どこまでを費用や効果に含めるか、どうやって数値化するか、どうやって同じ単位に換算するのかと問題が尽きない。
そこで大体の場合は、費用を多めに、効果を少なめに見積もっている。
つまり費用対効果の計算は最低基準を上回っているかを判断するためのものであって、費用も効果も真値には程遠い。
今回のテーマである人間関係においてはさらに難しいはずだ。
相手の特性をすべて同じ単位のパフォーマンスにするなんてできるわけがない。
⇒No

2. 無償の愛は存在するのか
愛をもらえば、何かしらの形で返したくなるのが人間という生き物だ。
その返報性を使って、何かを返してもらう前提で好意を示す人ももちろんいる。
それを叩く風潮があるのは、無償の愛や無条件の愛こそが至高の愛であるという一般的な共通感覚があるからだろう。
しかし、損得の関係性を見出せるからといって無償の愛ではないと側から指摘することは不毛な行為である。
なぜなら、客観的に無償の愛だと定義できる愛は存在しえないからだ。
当事者間で存在が認識されているならば、無償の愛は間違いなく存在していると言っていいだろう。
⇒Yes

人間関係はゼロサムゲームではない。常にwin-win

 

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人工知能のコイビト

以前から興味があった西千葉哲学カフェに参加してきた。
西千葉哲学カフェは、大阪大学博士課程特任研究員で「Jポップで考える哲学 自分を問い直すための15曲 (講談社文庫)」の著者でもある戸谷洋志さんが主催している哲学カフェで、1ヶ月に1回の頻度で西千葉駅から徒歩5分のMOONLIGHT BOOKSTOREで行なわれている。
学生限定のonecafeと違い参加者の年齢層が広く、社会人と学生が半分半分、男女比3:1、半分弱が新規といったところ。西千葉という立地からか、千葉大生が参加していたのが印象的だった。
10人を越える参加者を1人でファシリテーションするためにコミュニケーションボール&挙手制の形式を採用していた。
スタンダードな進行形式とは裏腹に、毎回ポップでタイムリーなテーマを扱っている前衛的な哲学カフェである。

今回は『人工知能を愛せるのか?』というやや現代的なテーマだったせいか参加者で予備知識の量に差があり、話が噛み合わない場面が多く見られた。
ファシリテーターも過干渉するタイプでもなく参加者に委ねられる部分が多かったので、前の人の意見に絡めた話をしている体をとってはいるものの全く関係ないことを発言をしている人が目立っていた。
自主的に挙手をしなければ発言をする機会はやってこないので、話し慣れている人がどんどん話していく。
このような“常連による占拠”はどの哲学カフェでも見られる傾向だろう。
しかしながら、主催者の人望の影響からか概ね民度は高かったと思う。


〜個人的なまとめ〜
愛には種類がある。人間に対する愛だけに限ったとしても、エーリッヒ・フロムの分類を借りるとすれば、母性愛、父性愛、兄弟愛、異性愛などに分けることができるし、それよりもさらに広げれば、ペットへの愛、所有物(無機物)への愛、神への愛など切りがない。
参加者の話を聞いていると大体の人が「愛する=異性愛」を前提として話しているように感じた。
たしかに成立が一番難しいと予想される愛は異性愛で、異性愛が成立するならそれ以外の愛も成立する可能性が高い。

人工知能が恋人になり得るのかという問いに答えるべく、まず人工知能と人間の違いを列挙する必要があった。
肉体、有限性、創造性、倫理観などが話題に上がったが、どれも愛を持つための絶対的な条件とは言えず反例がすぐに見つかった。
そもそも異性愛の対象に全員が共通して求める条件が存在しないのではないか。
恋人の最低条件を人工知能がパスできるのかは、人による。
人工知能を愛せるかを考えることは、自分の恋愛観を見つめ直すことができる問いだった。

 

今回の会で面白かったのは、人間に近づこうとする無機物の存在を話すと、人間信者と呼べる人の存在が露見することだった。
人間は神に創造された高尚な生き物であって、人工知能なんかにはできないことがたくさんあるはずという決めつけをもとに話す人が多かった。
一つずつ、人工知能が再現している人間らしさを説明するも、なかなか飲み込んではもらえなかった。

また、愛信者もたくさんいた。
最初からプログラムで意図された行動は愛ではないらしい。
人間が人に与える愛も意図されていることが多いのに。
コントロールされることへ異常に拒否反応を示すタイプの人たちなのだろう。

 

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2人の画家を追うテンジカイ

昨年の秋、上野の東京都美術館で開かれたゴッホゴーギャン
二人の軌跡を手紙で追う独特な展示形式に多くの来場者が引き込まれた。

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企画展は、画家の名前、時代、ジャンル、貯蔵する美術館のどれかをタイトルにつける。
その中で、画家の名前を冠する展示会といえば、一人の画家を取り上げ、初期から晩年まで何個かの時期に分けて作風の移り変わりを見ていくスタイルがスタンダードだろう。

一人ではなく、同じ時代に生き、友情を築いた二人の画家を取り上げる手法は、正に革新的だった。
従来の手法では影響を受けたとされる画家と抱き合わせて展示することが多いが、この展示方法では画風がまったく似つかない方が繋がりに意外性が生まれて面白い。
巨匠と言われるような画家同士の意外な繋がりを解き明かせば、ストーリー性が伴いやすい。
ゴッホゴーギャン展では、音声ガイドに人気な声優を起用して手紙の読み上げをしてくれるシステムがあった。
そうなれば、もはや一種の映画を見ているような感覚に近かった。
目の前にあるこの絵にはこんなエピソードあったと思うことで、当然没入度も上がった。

実は、この斬新な展示形式が今流行ってきている。
1/14から新橋のパナソニックミュージアムで、マティスとルオー展が始まった。
マティスもルオーも特段好きというわけではないが、さっそく行ってきた。

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もちろん2人の作品は見たことがあり、画風もなんとなく理解していた。
しかし、僕が知った気になっていたのは画風が洗練された晩年の作品だけだったらしい。
若かりし頃の作品でも、マティスの裸婦像は美しいし、ルオーの黒はどこまでも力強かった。
理解が深まったな、うんうん。

あれ?個人の企画展を同時に見てるだけじゃね?

ゴッホゴーギャン展で飲み込まれたあの感覚がない。
二人の軌跡を手紙で追う形式を採用するだけでは不十分なのか。
何が違かったのか考えてみると、それは2人の関係性の安定感だった。

マティスとルオーはパリの国立美術学校の同級生で、現存する一番古い手紙はすでに卒業した後。
つまり、この展示会は揺るぎない友情が形成されている状態からスタートする。で、最後まで仲良し。

それに比べて、ゴッホゴーギャンの関係性は幾度となく揺れ動く。

メンヘラを極めるゴッホ
奇怪な行動にさすがに疲れて出て行くゴーギャン
精神病棟に送られるゴッホ
お互いに尊敬しながらも距離感を保つ。
ゴッホが亡くなったあとに、向日葵をテーマに作品を描くゴーギャン
映画でもおかしくないほど濃密なストーリーだ。

 二人の軌跡を手紙で追う展示形式に大きな可能性が秘められているのは確かだが、成功するには「画風が似ていない」以外に「関係が安定していない」ことが必要だ。

さて、3/18からは箱根のポーラ美術で、ピカソシャガールが開かれる。二つの条件を満たしているから期待大だ。
誰か一緒にいこう。

 

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アドラー心理学のシンリャク

血反吐を吐きながら読み切った…。

一度閉じたら次開くには相当のエネルギーが必要になるから、トイレに行くのも我慢して一気に読み切った、褒めてくれ…。
大ヒットした“嫌われる勇気”の続編、“幸せになる勇気”

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嫌われる勇気を初めて読んだのは遥か昔のことだと思う。

ベストセラーというだけの理由で手にとってみたが、

今までに感じたことのない苛立ちで眉をひそめ肘をつきながら読んだのを忘れられない。
そして、晴れて僕の嫌いな本ランキング、二位に圧倒的な差をつけて暫定一位に輝いた。

なぜこんなに腹が立つのか、なぜこんなに世間に受け入れられているのか。

その問いに答えを出すために、アドラー心理学関連の本を5〜6冊読んだり、嫌われる勇気を題材に自分でブックカフェを開催したりもした。

 

◆なぜこんなに僕は腹が立つのか

それは、恐ろしく共感できる部分もあるのにその応用方法が全くもって腑に落ちないから。
事実、僕もアドラーの言う「すべての悩みは、対人関係の悩みである」には完全に賛成だし、課題の分離という考え方も好きだ。
しかし、程度は違えどどの本でも具体策は空虚な理想論の範囲を出ない。

 

◆なぜこんなに世間に受け入れられているのか

それは、アドラーの教えに従えば人間関係の問題を半ば強引に解決できるから。
しかも、人を切り捨てるというかなり簡単なやり方で。

 

どちらの問いにも自分で納得できる水準の答えを見つけ、僕の中でアドラー心理学との戦争は終わったはずだった。

だから、“幸せになる勇気”が出版されたときもガン無視だったのだけれど、出版業界を越えてテレビ業界にまで侵略してくるとなれば、次の戦いに向けて万全の準備をしなければならない。

下手すれば、自己啓発本を自発的に読む人よりも、何の気無しにドラマを観る人の方がアドラー心理学との親和性が高いかもしれない。
アドラー心理学は、すべての人間が漠然と抱える悩みに対して簡単な対策を教えてくれるから。
これ以上広まるとすれば、警鐘を鳴らさざるを得ない。

 

『人に嫌われるって意外と辛いことでもないから、変に気を使ってないでどんどん相手のせいにして切っていこうぜ!まぁやり方は任せるわ』

という内容の“嫌われる勇気”に比べ“幸せになる勇気”は、

『この前はあんなこと言ったけど、アドラー心理学を誤解しないでね!やり方もうちょい具体的に教えるぞ』ってかんじ。

つまり、続編の“幸せになる勇気”で、狂信的な読者とアンチ読者に向けて同時に「誤解しているよ」とメッセージを送る形になっている。
前作に比べれば誤解されにくい書き方になってはいるが、やはり内容自体は受け入れられないし、具体策といっても結局つかえる範囲はかなり狭く読者に実用的とは言えないだろう。

 

僕に言わせれば、アドラー心理学は諦めの哲学。
悩みがなくなることを人間の成長とするなら、アドラー心理学通りに生きる意味は大きい。
しかし、アドラーの思想が蔓延すれば、
人に対して期待せず、二人の間にできた課題をすべて相手に投げつけ、簡単に縁を切る冷たい人間が増えるに違いない。

傷つかない心を手に入れる代わりに、人を傷つける。人を癒す力も失う。
それを成長と呼べるのだろうか。
アドラー心理学は、自分さえよければいいという考えがチラついている。究極的に人に冷たい。

人は冷たくされれば、自分も徐々に冷たくなっていくものだ。

このままアドラー心理学の侵略を許せば、人間関係の氷河期が訪れるだろう。

後半の章では“自由からの逃走”“愛するということ”で有名なエーリッヒ・フロムの言葉を引用することでその冷たさを打ち消そうとしていて、なんだかその手口にも萎えてしまった。

 

とは言うものの、流行っている本を読むことは内容の是非以前に今の世間を知るために大切なことだ。

どうして世間に受け入れられているのか、広まったらどういう影響が出るのかを考えながら流行りの自己啓発本を読めば、思考のトレンドが理解できる。

そのトレンドをファッション感覚で取り入れている人の扱いを事前に考えておけるメリットはあまりにも大きい。

 

まだアドラー心理学の本を読んだことがない人には、ぜひとも(幸せになる勇気ではなく)嫌われる勇気を読んでみてほしい。

自己啓発本を読むときの鉄則「批判的に読む」を忘れずに。

 

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初めてのコジンカイサイ

今日、初めて個人で哲学カフェを開催しました。

参加者は僕を含めて6人。

ファシリテーションをしながら自分の意見を十分に言うには、丁度良い人数でした。

個人開催なら知り合いしか来てくれないだろうと踏んでいたのですが、蓋を開けてみたら半数以上は面識のない方で驚きました。

下は高校生から上は社会人までと年齢にも幅があって、多様な意見が飛び交う面白い会になりました。

 

さて、今回扱ったテーマは『病気は″しょうがない″のか』。

病名をラベルとして貼り付けることでそれ以上の理解を放棄し、病気への誤解を含んだまま思考停止しているのではないか、という問いを中心にみんなで考えていった。

ここで言う病気は、インフルエンザなどの短期的に治るものではなく、長年に渡って付き合って行かなければならないものを指す。

長年付き合ってきた病気は、趣味や出身地と同様に自己紹介のときに自然と言うべき内容にすらなる。

Twitterのbioにあたかもステータスのように病名を並べる行為もその延長線上にあるようだ。

しかしながら、そのメッセージも同じ境遇にある人に対してではなく健常者に向けているのであれば、あまり意味があるとは思えない。

というのも、「鬱だわ〜」「メンヘラかよw」「アスペじゃん」など、病名をネタっぽく扱う文化が根付いてしまっている中では、病名を伝えることに有益な影響を期待できないからだ。

ワードとして病名が一人歩きしている状態から脱却していく必要がある。

病名をラベルとして貼られることで、できない努力を強要されなくなると同時に、できる努力までも禁止されて、期待もしてもらえなくなってしまう。

それが悲しくて親しい間柄になれば、病名以上に精度の高い個人の症状を理解してもらいたくなる。

しかし、その理解にかかるコストは膨大なので自分のためにそこまで尽力してくれる人なのかは常に考えなくてはならない。

 

以下、他に出た意見の抜粋です。

 

・何を世間で病気とするかは、時代によって変わる。セクシャルマイノリティーが病気とされた時代があるように。

 

・健常者は、障がい者が何でもかんでも病気のせいにできることに嫉妬している。

 

・健常者と障がい者が一緒にいる場で、同じように対応するのは難しい。障がい者に対してウェイトを置きすぎに円滑にコミュニケーションを進めるシステムを作りたい。

 

・病気を持っている本人だけでなく周囲も、何かが出来ないことの根拠を病気に置きがち。

 

・生理的嫌悪感を禁止することはできないが、それを顔や行動に反映させないことはモラル観の範疇。

 

・病名を公言する側も病名を一方的に伝えるだけで心地よい環境作りをしてもらえると勘違いしている人が多い。

 

・メンヘラのメンヘラによるメンヘラのためのWebメディアであるメンヘラ.JP(http://menhera.jp)は、精神障害を持つ人のためのライフハックが載っていて参考になる。

 

 

次回はもう少しポップなテーマにして、リアルタイムでツイキャス配信しようかと計画中です。

非公式哲学カフェでは、onecafeとは異なり大学生だけでなく社会人の参加も大歓迎です。

興味がある方は、ぜひ次回ご参加ください。

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新年のアイサツ

明けましておめでとうございます。
僕は数多あるイベントの中でも正月が一番好きだ。
イースター、七夕、ハロウィン、クリスマス、正月、バレンタイン。
どう考えても一番多くの人が楽しんでいると思う。というよりも悲しんでいる人が少ないと言った方がいいかもしれない。
これほどまでに排他性のないイベントはないだろう。

 

新年の挨拶も大切な文化だと感じている。
学生の間では廃れつつある年賀状の代わりに、ツイッターやLINEで連絡する風潮が広がっている。
しかしながら、全体に向けて「あけましておめでとう!今年もよろしく」と投稿しただけで終わりなことが多い。

実際には一対一での挨拶が肝心なのではないかと思う。
明けましておめでとうございますも、今年もよろしくお願いしますも、完全なる定型文であって、それ以外のメッセージがないならただ形骸化した文化に付き合わされているだけだ。
二人の関係性ならではのメッセージをつけることが必須条件。

ちょっとした誘いも新年の挨拶のついでということにすれば、幾分気持ちが楽になる。

 

相手の方が歳下だったり今の関係性が不安定だからといって、変な意地を張ったせいで、新年の挨拶にあやかって連絡したかったのにできなかった人が何人かいた。そんな自分が嫌いになる。

 

自分の感情に素直になって、交友関係をしっかり固めよう。(←抱負)

 

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怒りのジュウヨウセイ

怒りという感情は、アドラー心理学で二次感情と位置付けられています。
つまり、怒りの根底には一次感情(落胆・心配・悲しみ・寂しさ・傷つき)という別の感情がある。

 

僕は、漠然と怒ることが結構あります。
怒るって言っても、イライラするとか、カンに触るとか、そういうレベルで。
もう年だから怒鳴らないよ。

 

いや、怒らせてくれるってすごいんですよ。
自分が何に怒っているのか考える機会をくれる。
つまり、自分を知るチャンスをくれてるんだから。

 

ツイッターでみんながどういう基準を持ってフォローしてるのかわからないけど、
僕は好きか嫌いな人をフォローしています。
嫌いな人はあえてブロックしない。
だから、僕にリムーブされた人は、嫌われたわけではないので安心してほしい。
嫌いでも好きでもない、かなりフラットな感情しか覚えない人をリムーブしてます。
嫌いな人はずっと好きな人と同じくらい大事にするよ。

 

怒りは、自分を知るために大切な感情だから、VIP対応されるべきだと思う。
年をとるごとに怒らなくなってくるのだとしたら、今のうちに怒っておくに越したことはない。
そして、怒りの一つひとつを大切にして解釈をする努力を怠ってはいけないような気がする。

 

イライラと共にワクワクを感じられる若さがあるときは、
怒りから逃げないようにしたい。

 

※今回の記事は、思考整理のためにツイキャスを使いました。
聞いてくださった方、ありがとうございました。
今後はブログのネタをまとめるためにキャスをすることが増えると思います。
たまたま時間が合ってリアルタイムで聞けた場合は、ぜひコメントをして僕の思考を深めるお手伝いをしてください。
よろしくお願いします。