東京は広く命は長い
東京が広くなった。
自分が大きくなるにつれて小さくなるばかりだった東京が。
頻繁に会ってた人たちが偶然同じタイミングで東京から出て行くとそれだけで東京は広くなるらしい。思わぬ発見だった。
自分を探しに遠くへ行ってしまった人には僕から連絡するべきではない。
一般的に新しい自分を見つけるには古い自分を少なからず削り落とす必要があるようで、その人たちにとっての僕は間違いなく古い自分の一部だから。
またこうやって意図的に情報を遮断することで、僕の中で神格化された人間が出来上がる。
神格化が進行すると会いたくもなくなる。僕好みに神格化したのに、ただの人間に堕ちられたら困るから。
その神々を拝む時間だけで朝から晩までを埋め尽くせたら、どんなに幸せだろうか。
時間の流れも遅くなった。僕の体感時間を決めるのは太陽ではなく周りの人間なんだということにも気付かされた。
実質的には寿命が延びたことになるかもしれない。
よく歳をとればとるほど体感時間が短くなると聞くけれど、少なくとも今の僕には当てはまらない。
“密度×時間=その人の人生の価値”だとするなら、密度が低い人ほど長生きしなきゃいけない。だから好都合だ。
今はこの逆行した感覚を大切にしよう。
好きで嫌いなら好きに違いない
僕は星野源が紛れもなく好きだ。そう断言できる。
ラジオパーソナリティとしての星野源やアーティストとしての星野源が好き。
オールナイトニッポンは開始から毎週欠かさず聴いているし、カラオケに行けば必ず彼の楽曲を歌う。
ただ、俳優としての星野源や物書きとしての星野源は嫌い。“好きではない”どころか“嫌い”だ。
コントでもドラマでも、彼の演技が気に食わない。意図せずに視界へ入ってきてしまったら、ずくに目をそらす。
自叙伝的な本もわざわざ手に取ってみたけれど顔を歪めずにはいられなかった。
「物事や人を評価する際に、特徴的な一面の評価に影響され、その他の側面に対しても同じように評価してしまう」という心理学でいうところのハロー効果を、僕は人よりも受けにくいと自覚している。
それは長所であるとともに、自分もそう扱ってほしいという気持ちを強く持っていることも表明しておくべきだろう。
マルチに活躍する有名人ほど各面に明確な名称が与えられている人は少ないけれど、どんな人間でも多かれ少なかれ多面的な生き物であることに違いない。
しかしながら、日々の生活の中で「磨いて滑らかな曲面にしろ、切り開いて全ての面を一目で見れるようにしろ」、そんな圧力を強く感じる。
どうにか一面的になるように加工させて評価を下す側のコストを削減する。
その圧力の気持ち悪さを一言で表現するのは難しい。
僕は、人の複雑性にこそ面白みがあると思っている。
自分が評価する側でも人の複雑性を理解するためにコストを払うのは敬意の範疇。
僕は嫌いな面が好きな面と同じくらいあろうとそれは全体としては間違いなく好きだと言って良いと思っている。
好きで嫌いなら好きに違いない。
そう考えれば、多面的な評価を下す場合でもコストが極端に上昇することはない。しかも、好きな人が増える。
ハイレッド・センターのスコアを残す
僕の一番好きな現代美術作家である森村泰昌さんが恵比寿で個展を開催している。
初日はオープニングセレモニーとして、東京都写真美術館の学芸員と森村泰昌本人でトークショーが行われた。
その中で印象に残った内容をまとめておく。
森村泰昌にこの道へ進むキッカケを与えたのは、高校生時代に手に取った美術手帖に載っていたハイレッド・センターだった。
ハイレッド・センターは、1963年に結成された高松次郎・赤瀬川原平・中西夏之を中心とする前衛芸術グループで、作品という物体を作るのではなく制作の行為そのものを作品にしていた。
今回の展示会では、その3人がそれぞれよく題材にしていた素材(ロープ・洗濯バサミ・紙幣)を用いて、写真作品・映像作品を新たに制作した。
森村泰昌が同じ題材で写真作品と映像作品を制作するスタイルを取るのは今に始まった事ではない。
同様のスタイルで製作された1990年のマルセル・デュシャンへのオマージュ作品『星男』(初めてのビデオ作品)や、2010年の暗黒舞踏の大野一雄の『ラ・アルヘンティーナ頌』も今回の展示会に出されていて、時代を跨った作品の変遷を追うことが出来る。
以下、発言内容の抜粋(ニュアンス)です。
1. 時代に育まれる身体感覚
昨今の芸術界では、1980年代をいよいよ検証するぞというムードになっている。
僕は1985年に初めての絵画ポートレート作品を作ったから、その矢面に立たさせることも多々あるけれど、好む好まざるによらず多くの影響を受けたのは青春を謳歌した60〜70年代だ。
みんなが歩いていく方向に背くことで身体がチグハグになるときにこそ、自分のアイデンティティを感じられるという60,70年代の身体感覚を、2018年に生きる森村泰昌という作家を通して世界に放り込んでみたかった。
明らかに僕とは別の身体感覚を持った若い人たちにどう映るのか気になる。
2. 滅びゆくものへ
どうやら尼崎の近くに星野リゾートができるらしい。あの誰もさわれなかった、アンタッチャブルな街に。
経済というものが押し寄せてくることによってなし崩し的に変化していく。
変化のサイクルが早くなると「何に価値を置くべきか」その思考が希薄になってしまう。
そのサイクルが人間のサイクルを越えてしまえば、、僕が生きているのにも関わらず僕の知らない街に変わっていくことになる。
何かが変わるということは確実に何かが滅びていくこと。
滅びゆくものにある種のレクイエムを送るのが、芸術の本質的なあり方だと思う。
3. 生と加工
僕は、結局のところ生なもんの方が美味しいんじゃないかなと思うんですよ。
やっぱりお刺身が美味しい。
でも、釣り上げたばかりの魚にかぶりついてるわけじゃない。素晴らしい包丁さばきでスパーってね。加工してあるけど生なの。
生写真とかいうように、写真は今まで生ものだった。
けれど、目まぐるしい加工技術の進歩で写真が生なのかわからなくなってきている。
それはつまり、良い悪いではなく写真に記録媒体としての機能がなくなったことを意味している。
僕がやっているセルフポートレートはもちろん自分じゃなきゃいけない。
際限なくイジれるということは、自分が希薄化してしまう恐れがある。
時代は変わっていて、この新しい作品はデジタルなんでフィルムがないんですよ。
銀塩はよかったけれど、それだけの作品で展示するという思考ではない。
今風の技術を使っているし、あんなことやこんなこともしてみたくなる。
今を生きる表現者としてのスタンディングポジションを未だに模索している私を、割と素直にいつも見せている気がする。
4. 演奏と記譜
僕の作品はなりきりアートやパロディなどと形容されてきたが、僕は兼ねてから“真似る”という言葉を使ってきた。
真似るは学ぶの語源。
私がやっていることは、真似ることで何かを学ぶことだ。
最近になってもう一つ良い表現を見つけた。それは、スコア、記譜するという言葉。
楽譜はアーカイブ資料としての価値がある。先人たちも私たちに残してくれている。
60年代に残されたスコアを2018年の私たちがどう演奏するのか。
私も1つのケースとして演奏の仕方を見せている。
アウティングに溢れる世界
アウティングとは、本人の了解を得ずに公にされていない情報を第三者に暴露する行為のこと。
特にまだ差別意識が残っている内容ではプライバシー侵害として大きな問題として取り上げられている。
主にLGBT界隈でよく使われている言葉だが、僕はより一般的に広い範囲で使われるべきだと思っている。
所属していることを公にしない人が多い団体は、アウティングを大々的に禁止している。
僕が入っているMENSAも偏見を持たれやすい集団だからもちろんそのひとつだ。
基本規約 第13条 第3項に、
“JAPAN MENSA 及び各会員は、特定の会員に関する情報を、本人の許諾を得ずにメンサの外部に漏洩してはならない。” と、しっかりと記載されている。
哲学カフェでは、知り合いの参加者がいた場合にその場の他の参加者が知り得ない情報を勝手に出してはいけない。
これはルールというよりマナーに近いが、やはり人を不愉快にしないための配慮だ。
ツイッターなら、DMの内容や鍵垢のツイートを無断で晒すのは良くないとされている。
これだけ聞くと、アウティングに十分な理解が得られているような気がしてしまうけれど、実態としてはアウティングは世界に溢れている。
アウティングされることに敏感な人でも、自分の関心事以外でアウティングをしていないのか甚だ疑問だ。
あの人、◯大卒だよ。
最近、彼女と別れたって言ってたよ。
今度、結婚するってさ。
うちの近所に◯◯さん住んでるよ。
彼の誕生日は◯月△日だよ。
茨城出身らしい。
どれもアウティングになる可能性がある。
何が公にされている情報なのかの線引きをなんとなくでやっていると、無意識的に悪意もなくアウティングしてしまう。
独自のルート(誰しもが辿れるルートではない)で手に入れた情報は、どんなに小さなことでも本人の了承を得ずして第三者には伝えないのが得策だろう。
この人にはコレは言うけどアレは言わない。
あの人にはアレは言うけどコレは言わない。
よくあることだ。僕の情報をすべて知っている人なんてこの世に存在しない。
誰に何を伝えたいかはかなり複雑な話で、本人以外が決めていいことじゃない。少なくとも僕は決めてほしくない。
まだまだみんながお互いに配慮する必要がある。
いつの日か青いジンで
気がつけば僕の心には常に不思議な枠が必要になっていた。
恋人でもなければ親友でもない。名前はあえて付けないことにしている。
線を引かずにどこまでも自由に繋がっていきたい。どこまでいけるか。どこにいけるか。ある種の実験なのかもしれない。
好きだから嫌いで、嫌いだから好きで。
なのに、必ず使い捨てる羽目になってしまう。乾電池みたいに。
自分勝手に毎回悲しくなるんだ。
せめて“ありがとう”の一言で次に進めるようになりたい。
もうすぐまた電池が切れる。
あなたのことは好きだけど、これからもずっとずっと好きでいられる自信がない。
そう告げられた僕は、自分に言い聞かせるように返した。
もし僕を好きでいられなくなっても、僕を好きだった頃の自分まで嫌いにならないでくれるなら、僕はそれで十分だよ。
実際、捨てられるのは必ず僕だ。
でも本当は捨てられたくない。
君が思うほど優しい言葉じゃないよ。
僕を好きだった君を未来の君に否定して欲しくない。
それはもはや僕をずっと好きでいてってお願いしてるのとあまり変わらないかもしれない。
軽いようで恐ろしく重いお願い。
でも、一方的にってわけじゃない。
僕も否定しない。僕は否定しない。
哲学カフェのリソウ
哲学カフェ。25年前のパリで始まったこの活動は、日本でも東日本大地震を機に加速度的に広まっている。
今では週末になると東京近郊なら必ず5つくらいは開催されているような状況だ。
今となっては、哲学カフェの内容は団体によってかなりの差がある。
多様化することで、参加者が自分に合った団体を選べるようになってきたと考えれば、良いことだと言える。
しかし、僕の主観ではもはや哲学カフェと呼べない団体も少なくない。
今一度、僕が理想だと思う哲学カフェの条件をまとめておくことにする。
1. 対話をしている
哲学カフェが目指す対話は、ディベート/ディスカッション/議論/討論とは全くの別物である。間違っても答えを1つに決めようとすることはない。
だから、答えを出すことを目指す行為とは明確に区別しなくてはならない。
2. 参加者に制限がない
定年退職後の、働く女性の、子供の、十代の、〇〇大学の、学生のなどと銘打って、参加条件を設けている場合がある。
条件を設ける理由を好意的に解釈すれば、哲学カフェが乱立する中で団体の独自性を確立するため。
または、似たような境遇の人を集めることで参加者同士の価値観の幅を狭め、限られた時間でより深い対話を行うため。もしかしたら、出会いの場としての効果は高める狙いがあるのかもしれない。
しかし、哲学カフェはそもそも多様性を認めた上でそのレッテルを鵜呑みにしないことを大切にしているはずだ。
運営陣には哲学カフェの理念から逆行した制限であるとしっかりと認識してほしい。
3. 参加フォームの匿名性が高い
参加フォームがfacebookのみの哲学カフェがある。facebookは基本的に実名登録をするSNSで、匿名性やバッググラウンドによるバイアスをかけないで話し合いたい場には不適切だろう。
4. 主催者が有名な人ではない
哲学カフェが出来た経緯には、それまでの哲学の勉強会では有識者が一方的に正解を伝える形式になっていることへの危機感が強く関係している。
主催者がある種の権威的な人だと、その人の話を聞くために参加者が集まり、話の流れを整理する段階でファシリテーターの意見が強く介入してしまうことになる。
そうなると、ほぼ講演会と変わらない。
正直に言えば、ここまでは哲学カフェを名乗る団体すべてが持っているべき要素だと思う。以下、僕が理想だと思う条件。
5. 開催頻度が高い
6. 参加者が固定化されていない
7. 誰でも飛び入り参加ができる
8. 途中退室がしやすい
9. 各テーブル6人までの少人数制
10. 場所が会議室ではない
11. 場所代+飲食代以上の会費がない
12. テーマを運営外から汲み取る仕組みがある
13. 活動の透明性が高い
難しい条件だということは、哲学カフェの運営をしていた僕自身がよくわかっている。自分でやっているのに達成できなかったんだから相当だ。
行く行く、そういう哲学カフェがたくさん出来てくれたら嬉しい。
哲学カフェを運営している人たちへ
僕は哲学カフェ巡りが趣味のひとつだ。
3年前に初めて参加して以来、首都圏の様々な団体の哲学カフェに合計150回近くもお邪魔している。自分でも日本で初のインカレ哲学カフェサークルを設立し運営していたことがある。
そうした中で、運営陣と話す機会があると、必ずと言っていいほど哲学カフェについて全然知らないことにビックリさせられる。
どの哲学カフェでも対話に入る前に導入として哲学カフェの説明をする。
このタイミングで哲学カフェという活動全体の説明と自分たちの哲学カフェの特色の説明を混同してしまっていることが物凄く多い。
自分の哲学カフェが他の哲学カフェに比べてどう違うのか。各哲学カフェの運営陣がそれを把握していないことは、哲学カフェという文化の普及にとって重い足枷となっているに違いない。
発展途上的なこの活動にはかなりの割合で“初めて哲学カフェに参加する人”がいる。初参加の哲学カフェが哲学カフェを代表したような立場を取ることで、自分の肌に合わなかった場合に哲学カフェ自体に見切りをつけてしまう人が少なくない。
そして、どこでも同じことをやっていると思い込んだ結果、同じ団体にばかり参加する人が増える。これも良くない影響だ。
哲学カフェを運営するなら、まずは定期的に他の哲学カフェにも参加する必要がある。これは断言できる。
そうすることで、自分たちの哲学カフェの独自性はどこか、スタンダードな哲学カフェは何かを理解しておいて欲しい。
独自のマイナーチェンジで明らかに哲学カフェの範疇からはみ出ているなら、哲学カフェを名乗らないのも手だと思う。
逆に哲学カフェという名称を使うならば慎重になるべきだろう。
見ず知らずの人々がカフェに集まって、コーヒー片手に日常生活では煙たがれてしまうような問いで対話する。
この文化が順調に広がれば、街にすら対話が溢れるようになるはず。
僕はその世界が今より良い世界だと思う。