アウティングに溢れる世界
アウティングとは、本人の了解を得ずに公にされていない情報を第三者に暴露する行為のこと。
特にまだ差別意識が残っている内容ではプライバシー侵害として大きな問題として取り上げられている。
主にLGBT界隈でよく使われている言葉だが、僕はより一般的に広い範囲で使われるべきだと思っている。
所属していることを公にしない人が多い団体は、アウティングを大々的に禁止している。
僕が入っているMENSAも偏見を持たれやすい集団だからもちろんそのひとつだ。
基本規約 第13条 第3項に、
“JAPAN MENSA 及び各会員は、特定の会員に関する情報を、本人の許諾を得ずにメンサの外部に漏洩してはならない。” と、しっかりと記載されている。
哲学カフェでは、知り合いの参加者がいた場合にその場の他の参加者が知り得ない情報を勝手に出してはいけない。
これはルールというよりマナーに近いが、やはり人を不愉快にしないための配慮だ。
ツイッターなら、DMの内容や鍵垢のツイートを無断で晒すのは良くないとされている。
これだけ聞くと、アウティングに十分な理解が得られているような気がしてしまうけれど、実態としてはアウティングは世界に溢れている。
アウティングされることに敏感な人でも、自分の関心事以外でアウティングをしていないのか甚だ疑問だ。
あの人、◯大卒だよ。
最近、彼女と別れたって言ってたよ。
今度、結婚するってさ。
うちの近所に◯◯さん住んでるよ。
彼の誕生日は◯月△日だよ。
茨城出身らしい。
どれもアウティングになる可能性がある。
何が公にされている情報なのかの線引きをなんとなくでやっていると、無意識的に悪意もなくアウティングしてしまう。
独自のルート(誰しもが辿れるルートではない)で手に入れた情報は、どんなに小さなことでも本人の了承を得ずして第三者には伝えないのが得策だろう。
この人にはコレは言うけどアレは言わない。
あの人にはアレは言うけどコレは言わない。
よくあることだ。僕の情報をすべて知っている人なんてこの世に存在しない。
誰に何を伝えたいかはかなり複雑な話で、本人以外が決めていいことじゃない。少なくとも僕は決めてほしくない。
まだまだみんながお互いに配慮する必要がある。
いつの日か青いジンで
気がつけば僕の心には常に不思議な枠が必要になっていた。
恋人でもなければ親友でもない。名前はあえて付けないことにしている。
線を引かずにどこまでも自由に繋がっていきたい。どこまでいけるか。どこにいけるか。ある種の実験なのかもしれない。
好きだから嫌いで、嫌いだから好きで。
なのに、必ず使い捨てる羽目になってしまう。乾電池みたいに。
自分勝手に毎回悲しくなるんだ。
せめて“ありがとう”の一言で次に進めるようになりたい。
もうすぐまた電池が切れる。
あなたのことは好きだけど、これからもずっとずっと好きでいられる自信がない。
そう告げられた僕は、自分に言い聞かせるように返した。
もし僕を好きでいられなくなっても、僕を好きだった頃の自分まで嫌いにならないでくれるなら、僕はそれで十分だよ。
実際、捨てられるのは必ず僕だ。
でも本当は捨てられたくない。
君が思うほど優しい言葉じゃないよ。
僕を好きだった君を未来の君に否定して欲しくない。
それはもはや僕をずっと好きでいてってお願いしてるのとあまり変わらないかもしれない。
軽いようで恐ろしく重いお願い。
でも、一方的にってわけじゃない。
僕も否定しない。僕は否定しない。
哲学カフェのリソウ
哲学カフェ。25年前のパリで始まったこの活動は、日本でも東日本大地震を機に加速度的に広まっている。
今では週末になると東京近郊なら必ず5つくらいは開催されているような状況だ。
今となっては、哲学カフェの内容は団体によってかなりの差がある。
多様化することで、参加者が自分に合った団体を選べるようになってきたと考えれば、良いことだと言える。
しかし、僕の主観ではもはや哲学カフェと呼べない団体も少なくない。
今一度、僕が理想だと思う哲学カフェの条件をまとめておくことにする。
1. 対話をしている
哲学カフェが目指す対話は、ディベート/ディスカッション/議論/討論とは全くの別物である。間違っても答えを1つに決めようとすることはない。
だから、答えを出すことを目指す行為とは明確に区別しなくてはならない。
2. 参加者に制限がない
定年退職後の、働く女性の、子供の、十代の、〇〇大学の、学生のなどと銘打って、参加条件を設けている場合がある。
条件を設ける理由を好意的に解釈すれば、哲学カフェが乱立する中で団体の独自性を確立するため。
または、似たような境遇の人を集めることで参加者同士の価値観の幅を狭め、限られた時間でより深い対話を行うため。もしかしたら、出会いの場としての効果は高める狙いがあるのかもしれない。
しかし、哲学カフェはそもそも多様性を認めた上でそのレッテルを鵜呑みにしないことを大切にしているはずだ。
運営陣には哲学カフェの理念から逆行した制限であるとしっかりと認識してほしい。
3. 参加フォームの匿名性が高い
参加フォームがfacebookのみの哲学カフェがある。facebookは基本的に実名登録をするSNSで、匿名性やバッググラウンドによるバイアスをかけないで話し合いたい場には不適切だろう。
4. 主催者が有名な人ではない
哲学カフェが出来た経緯には、それまでの哲学の勉強会では有識者が一方的に正解を伝える形式になっていることへの危機感が強く関係している。
主催者がある種の権威的な人だと、その人の話を聞くために参加者が集まり、話の流れを整理する段階でファシリテーターの意見が強く介入してしまうことになる。
そうなると、ほぼ講演会と変わらない。
正直に言えば、ここまでは哲学カフェを名乗る団体すべてが持っているべき要素だと思う。以下、僕が理想だと思う条件。
5. 開催頻度が高い
6. 参加者が固定化されていない
7. 誰でも飛び入り参加ができる
8. 途中退室がしやすい
9. 各テーブル6人までの少人数制
10. 場所が会議室ではない
11. 場所代+飲食代以上の会費がない
12. テーマを運営外から汲み取る仕組みがある
13. 活動の透明性が高い
難しい条件だということは、哲学カフェの運営をしていた僕自身がよくわかっている。自分でやっているのに達成できなかったんだから相当だ。
行く行く、そういう哲学カフェがたくさん出来てくれたら嬉しい。
哲学カフェを運営している人たちへ
僕は哲学カフェ巡りが趣味のひとつだ。
3年前に初めて参加して以来、首都圏の様々な団体の哲学カフェに合計150回近くもお邪魔している。自分でも日本で初のインカレ哲学カフェサークルを設立し運営していたことがある。
そうした中で、運営陣と話す機会があると、必ずと言っていいほど哲学カフェについて全然知らないことにビックリさせられる。
どの哲学カフェでも対話に入る前に導入として哲学カフェの説明をする。
このタイミングで哲学カフェという活動全体の説明と自分たちの哲学カフェの特色の説明を混同してしまっていることが物凄く多い。
自分の哲学カフェが他の哲学カフェに比べてどう違うのか。各哲学カフェの運営陣がそれを把握していないことは、哲学カフェという文化の普及にとって重い足枷となっているに違いない。
発展途上的なこの活動にはかなりの割合で“初めて哲学カフェに参加する人”がいる。初参加の哲学カフェが哲学カフェを代表したような立場を取ることで、自分の肌に合わなかった場合に哲学カフェ自体に見切りをつけてしまう人が少なくない。
そして、どこでも同じことをやっていると思い込んだ結果、同じ団体にばかり参加する人が増える。これも良くない影響だ。
哲学カフェを運営するなら、まずは定期的に他の哲学カフェにも参加する必要がある。これは断言できる。
そうすることで、自分たちの哲学カフェの独自性はどこか、スタンダードな哲学カフェは何かを理解しておいて欲しい。
独自のマイナーチェンジで明らかに哲学カフェの範疇からはみ出ているなら、哲学カフェを名乗らないのも手だと思う。
逆に哲学カフェという名称を使うならば慎重になるべきだろう。
見ず知らずの人々がカフェに集まって、コーヒー片手に日常生活では煙たがれてしまうような問いで対話する。
この文化が順調に広がれば、街にすら対話が溢れるようになるはず。
僕はその世界が今より良い世界だと思う。
3.3のシツモン
「33の質問」という1986年に出版された本がある。詩人の谷川俊太郎が色々な人達に33個の質問をして回答してもらうというシンプルな企画をまとめた内容になっている。
東京オペラシティで開催していた谷川俊太郎展では、その現代版として33の質問から選ばれた3問に新しく0.3の質問を加えて「3.3の質問」という新プロジェクトの展示をしていた。
いとうせいこうやみうらじゅんを始めとする各界の著名人の回答は、哲学的かつ刺激的だったが、それ加えて思考した跡がクッキリと見えた。
そこで僕は33+1個の質問に自分でも答えてみることにした。
1.金、銀、鉄、アルミニウムのうち、もっとも好きなのは何ですか?
銀。なんでも2番目が自分に合っている気がするから。
2.自信をもって扱える道具をひとつあげて下さい。
言葉。そう答えざるを得ない。言葉に自信を持っていなければ、人との対話ができなくなってしまうから。
3.女の顔と乳房のどちらにより強くエロチシズムを感じますか?
圧倒的に顔。道端に誰のものかわからない乳房が転がっていても、何事もなかったかのように通り過ぎると思う。
4.アイウエオといろはの、どちらが好きですか?
いろは。口に出したときに、10℃くらいあったかく聴こえる気がする。
5.いま一番自分に問うてみたい問いは、どんな問ですか?
勇気はいつ必要なのか。
6.酔いざめの水以上に美味な酒を飲んだことがありますか?
何度も浸り直す思い出に登場する酒たちは、時間をかけて神格化されて再現性のカケラもない味になっている。
7.前世があるとしたら、自分は何だったと思いますか?
生きることが上手ではないので、人間は1周目だと思う。
8.草原、砂漠、岬、広場、洞窟、川岸、海辺、森、氷河、沼、村はずれ、島―どこが一番落ち着きそうですか?
流れがある水辺が好きだけど、海辺ではなかなか気が抜けないから一番は川辺かな。特に綺麗に舗装された都会の川辺が好き。
9.白という言葉からの連想をいくつか話して下さいませんか?
ワイシャツ、子供の肌、アヒル。白のイメージには純粋さと柔らさが付いてくるみたい。
10.好きな匂いを一つ二つあげて下さい。
古い記憶の中で父親が仕事に行くときにつけていた香水の匂い。
白い湯気が充満した温泉の檜風呂の匂い。
11.もしできたら「やさしさ」を定義してみて下さい。
短期的には甘やかすこと、長期的には叱ること。
12.1日が25時間だったら、余った一時間を何に使いますか?
この世で自分だけが24〜25時の間に動けるのだとしたら、悪用してしまうだろう。そうではなく、みんなの時間が平等に1時間増えたらという仮定なら、特別な使い方にはならないはず。時間的寿命は変わらず、年月的寿命が減るだけ。
13.現在の仕事以外に、以下の仕事のうちどれがもっとも自分に向いていると思いますか?指揮者、バーテンダー、表具師、テニスコーチ、殺し屋、乞食。
向いている以前に、自分に出来そうな仕事がひとつも見当たらない。
14.どんな状況の下で、もっとも強い恐怖を味わうと思いますか?
人間は恐怖に囲まれている。その恐怖を原動力にすることも少なくないから、恐怖の感情はとても大切なものだと言えるはずだ。激しい矛盾を孕んだ答えになってしまうが、一番怖いのは恐れるものが何も無くなった状況だと思う。
15.何故結婚したのですか?
結婚はしていないし、今後もすることはないと思う。今や、結婚には幸せの定石としての力はない。
16.きらいな諺をひとつあげて下さい。
死人に口なし。
17.あなたにとって理想的な朝の様子を描写してみて下さい。
窓から差す陽の光で起きたら、同じ部屋で好きな人が寝ている。
18.一脚の椅子があります。どんな椅子を想像しますか?形、材質、色、置かれた場所など。
大量生産された鉄の丸椅子。
19.目的地を決めずに旅に出るとしたら、東西南北、どちらの方角に向かいそうですか?
目的もなくと言われれば、西。見知った場所も多くて、暇をつぶすのには苦労しないだろうから。
20.子供の頃から今までずっと身近に持っているものがあったらあげて下さい。
タオル地のぬいぐるみ。無いと寝れないとまでは言わないけれど、あれば落ち着く。
21.素足で歩くとしたら、以下のどの上がもっとも快いと思いますか?大理石、牧草地、毛皮、木の床、ぬかるみ、畳、砂丘。
木の床。光を跳ね返す板を踏み込めば少し鈍い音がする。かかとから指先まで丁寧に足の裏をつけて、ひんやりとした温度を味わう。夏でも冬でも。
22.あなたが一番犯しやすそうな罪は?
無意識で犯してしまうような罪だろうから、この問いを考えてすぐに思いつく罪ではないと思う。
23.もし人を殺すとしたら、どんな手段を択びますか?
人を殺すなら自分も死ぬ。殺す人とほぼ同時に死ねる方法を選ぶはず。崖から一緒に飛び降りるとか。
24.ヌーディストについてどう思いますか?
僕にはヌーディストの知り合いが一人もいないので、気になることだらけ。一晩だけでも良いから話してみたい。いつからヌーディストなのか、なぜヌーディストになったのか、ヌーディストと自ら名乗ることはあるのか。
25.理想の献立の一例をあげて下さい。
夜ご飯に友人を誘うもあっけなく全員に断られてしまい、しょうがなくひとりで食べるいつものチャーシューメン。
26.大地震です。先ず何を持ち出しますか?
逃げなくては死ぬような地震が来たら、ラッキーだと思って死んでしまうかもしれない。
27.宇宙人から<アダマペ プサルネ ヨリカ>と問いかけられました。何と答えますか?
音声を介したコミュニケーション方法を人間に試みてきたことから、人間についてある程度の情報を持っている可能性があるので、地球で使われている言語なのか調べる。
28.人間は宇宙空間へ出てゆくべきだと考えますか?
出て行きたい人は、出て行けばいい。
29.あなたの人生における最初の記憶について述べて下さい。
2,3歳で引っ越しをした。その直後は、母親と一緒に毎朝電車で保育園に通っていた。小さいながら愚痴も言わない僕に、母は乗り換えの駅でコーンポタージュを買ってくれていた。熱くなくなるまで渡してはくれないし、飲めてもコーンの粒は取りきれないし。とにかくじれったい感情が、薄暗い地下鉄のホームに張り付いている。
30.何のために、あるいは誰のためになら死ねますか?
自分のためになると思えば死ねる。人のために死ぬことが自分のためになると思ったとしたら、それは誰のためということになるのかはわからないけれど。
31.最も深い感謝の念を、どういう形で表現しますか?
その人がしてくれた形で。友達にはその友達に、恋人ならその恋人にだけれど、親なら子供に、先輩なら後輩にと対象は変わるかもしれない。
32.好きな笑い話をひとつ、披露して下さいませんか?
お風呂で撮った自撮り写真を母親に送ってしまったことがある。無反応でした。
33.何故これらの質問に答えたのですか?
詩人との触れ合い方として、一方的に解釈する以外の方法は珍しく、何か新しい発見があるに違いないと踏んだから。
34. 3と0.3を量ではなく質として比べた場合、どちらが純度が高いでしょう?
0.3であってほしい。3はあまりに完璧で安定していて凝り固まっていて詰まらない大人みたい。
月日が経ったとき、同じ質問に対する答えはどう変わるのか。それがわかるのは今から30年後。
「君の名前で僕を呼んで」のイミ
君の名前で僕を呼んで、僕は僕の名前で君を呼ぶ。
初めて体を重ねたときにそんなことを囁かれたら、え?なんて言ったの?って聞き返してしまうと思う。どんなプレイなんだよって。
映画「君の名前で僕を呼んで」は第90回アカデミー賞で4部門にノミネート、そして見事に脚色賞を受賞した。
1983年の北イタリアを舞台に、17歳の少年エリオが大学教授の父親を手伝うためにやってきた男子大学院生オリヴァーに恋をする物語だ。
このタイトルの本質を考えるにあたって、ストーリーの中に入り込むのか、筆者の存在を考慮に入れるのかによって、その解釈は大きく変わってくる。
2人の関係性だけでシンプルに考えるなら、相手の名前であるかのように自分自身の名前を口にすることは高度な融合状態を助長する働きがある。
特に年齢差があり相手に劣等感を抱いている状態で尊敬心からくる恋愛感情だったからこそ、そのセリフは効力を強く発揮したのだろうと推測できる。
お互いの名前で呼び合うことは、異性に比べて同性相手なら幾分かは受け入れやすいかもしれない。
さて、本題はここから。
エリオ/オリヴァー/エリオの父親、この3人は全て筆者のアンドレ・アシマン自身なのではないかという興味深い指摘を見かけた。各登場人物の役柄が筆者の生い立ちと上手くマッチしている。筆者は若き日をイタリアで過ごし、舞台になっている80年代には大学院生、そして今は大学教授をしているのだ。
エリオの父親は筆者に一番近い人物像だ。簡単に言えば、今の自分。この物語はエリオとオリヴァーの恋愛沙汰がメインなのにも関わらず、ラスト前のシーンで長々と核心に触れるような言葉をエリオにかける父親の姿はとても違和感がある。しかし「今の自分が17歳の自分に直接話しかけられるなら」という想いを汲み取るとすれば合点が行く。エリオの父親という形で自分自身をそのまま物語の中に組み込んだのかもしれない。
オリヴァーはエリオの父に似た人生を歩むことがすでに暗示されている。それを裏付けるかのように、(映画では扱われていないが)小説の終盤でオリヴァーの息子がエリオという名前だと明かされる。
そして、エリオは父親やオリヴァーとは違う人生を歩む可能性をまだ持っていた頃の自分だ。
つまり、この物語は、今の自分(エリオの父親)が今に繋がる自分(オリヴァー)とまだ他の道が残された自分(エリオ)の関係性の揺らぎを見つめ直すことで、意図的に手放した可能性を想う深い後悔を描いているのではないだろうか。
タイトルはエリオの中で反芻された裏切りのセリフになる。
オリヴァーが結婚することとなり、2人の関係性は崩れてしまう。その後、15年間を経て直接会うことになる。
オリヴァー:僕たちは年を取っても、あの若者2人のことを話し続けるんだ。たまたま僕たちと同じ列車に乗り合わせた他人みたいに。
エリオ:僕はまだ、その若者を他人と呼ぶ心の準備ができていないのかもしれない。
過去の自分を別人と割り切れば、常に新しい自分として身軽でいられる。日々求められる一貫性という検問を通るのも比較的容易になるかもしれない。
過去は意図的に切り落とさなくても、痛みもなく壊死して崩れ落ちていってしまうものだ。人間が本来そういう生き物なのかもしれない。
だから、過去の自分に血を通わせ続けることは非常に難しい。
どの過去の自分も今の自分の一部として否定せずに自分であり続けてほしい。
欲張りで馬鹿げた考えかもしれないけれど、過去の自分とともに生きていきたい強く思った。
僕は今ちょうどオリヴァーと同い年。僕は17歳の僕を切り捨てずに生きていけるだろうか。
彫刻のユラギ
芸術としてのヌードは、人間にとって身体という最も身近なテーマであると同時に、人間の内面を映し出す鏡という永遠のテーマだ。
横浜美術館でヌード展と題した展示会が開かれている。西洋近現代美術における裸体表現の変遷に焦点をあてた斬新な展示会で、僕も前々から開催を楽しみにしていた。
古典文学・神話・聖書に題材を求める歴史画から日常生活に根ざした室内空間を覗き見たようなヌード画へ、それからキュビズム、ドイツ表現主義、ヴォーティシズム、レアリスム、シュルレアリスム、フェミニズムへと話が展開していく。
この展示で一際注目を集めているのがロダンの接吻だ。
あの考える人で有名な彫刻家ロダンは、等身大を越える大きさの作品を生涯で片手で数えられる程しか作っていない。接吻はそのうちのひとつ。
なぜあえて巨大な像にしたのか。
キスという儚く刹那的な行為を力強い不滅な存在にしたかったと解釈されることが一般的らしい。
その問いに僕が自分なりに答えるなら「視界の占有率を上げることで作家の目指す構図に近づけるため」となんだか一見冷たい回答になってしまう。
“彫刻は絵画と違って立体的だ”
これは少し厳密性に欠ける発言だけれど、どう頑張っても全貌を一点から見ることが出来ないと言い換えれば問題がないだろう。
接吻は、周りをぐるっと一周できるように展示されている。周りを歩くと、彫刻の見え方がみるみる変わっていく。男と女の視界を占める割合が変わっていく。構図が変わることで2人のパワーバランスも揺らぐ。
直前まで絵画を見ていたからか、その変化の効力を如実に感じ取ることが出来た。
この彫刻は瞬間を切り取っているわけではない。確実に動いている。
止められた時の中で僕が彼らをジロジロ見ていたわけではなくて、この男女は僕の目の前で熱烈な接吻を繰り広げていたんだ。なんて奴らだ。
うん、キスって良いよね、役割がより曖昧でフェアだから。
キスをする2人が題材になった彫刻をじっくりと見れたからこそ気付けた感覚だ。大切にしたい。