二度目の死
人間は二度死ぬ。一度目は心臓が止まったときに、二度目は人から忘れられたときに。
人が「死にたい」と口にしたら、多くの場合は“二度目の死”を意味するのではないだろうか。
しかし、二度目の死を完璧に決行するのは甚だ現実的ではない。
何か外的な刺激を受けてやっと思い出せる状態も“忘れている/忘れた”とするなら、僕もみんなも何十人何百人何千人と人を殺めていることになる。
それだけ日常的に忘却が行われていようと、関わった人全員に殺してもらうのはほぼ不可能だ。
人から忘れられるために自分ができることは何かあるか。僕には網羅的で効率的な方法は1つも思いつかない。
ある意味では一度目の死より二度目の死の方がより難しいと言えるかもしれない。
忘れたいのに忘れられないこと。
忘れたくないのに忘れてしまうこと。
忘れられたいのに忘れてもらえないこと。
忘れられたくないのに忘れられてしまうこと。
人間関係と忘却と恐怖と生死。
記憶は、恐ろしく厄介でありながらそれが途轍もなく面白くて、人間が死ぬまで付き合っていかなくてはならない概念なのだろう。