アドラー心理学のシンリャク
血反吐を吐きながら読み切った…。
一度閉じたら次開くには相当のエネルギーが必要になるから、トイレに行くのも我慢して一気に読み切った、褒めてくれ…。
大ヒットした“嫌われる勇気”の続編、“幸せになる勇気”。
嫌われる勇気を初めて読んだのは遥か昔のことだと思う。
ベストセラーというだけの理由で手にとってみたが、
今までに感じたことのない苛立ちで眉をひそめ肘をつきながら読んだのを忘れられない。
そして、晴れて僕の嫌いな本ランキング、二位に圧倒的な差をつけて暫定一位に輝いた。
なぜこんなに腹が立つのか、なぜこんなに世間に受け入れられているのか。
その問いに答えを出すために、アドラー心理学関連の本を5〜6冊読んだり、嫌われる勇気を題材に自分でブックカフェを開催したりもした。
◆なぜこんなに僕は腹が立つのか
それは、恐ろしく共感できる部分もあるのにその応用方法が全くもって腑に落ちないから。
事実、僕もアドラーの言う「すべての悩みは、対人関係の悩みである」には完全に賛成だし、課題の分離という考え方も好きだ。
しかし、程度は違えどどの本でも具体策は空虚な理想論の範囲を出ない。
◆なぜこんなに世間に受け入れられているのか
それは、アドラーの教えに従えば人間関係の問題を半ば強引に解決できるから。
しかも、人を切り捨てるというかなり簡単なやり方で。
どちらの問いにも自分で納得できる水準の答えを見つけ、僕の中でアドラー心理学との戦争は終わったはずだった。
だから、“幸せになる勇気”が出版されたときもガン無視だったのだけれど、出版業界を越えてテレビ業界にまで侵略してくるとなれば、次の戦いに向けて万全の準備をしなければならない。
下手すれば、自己啓発本を自発的に読む人よりも、何の気無しにドラマを観る人の方がアドラー心理学との親和性が高いかもしれない。
アドラー心理学は、すべての人間が漠然と抱える悩みに対して簡単な対策を教えてくれるから。
これ以上広まるとすれば、警鐘を鳴らさざるを得ない。
『人に嫌われるって意外と辛いことでもないから、変に気を使ってないでどんどん相手のせいにして切っていこうぜ!まぁやり方は任せるわ』
という内容の“嫌われる勇気”に比べ“幸せになる勇気”は、
『この前はあんなこと言ったけど、アドラー心理学を誤解しないでね!やり方もうちょい具体的に教えるぞ』ってかんじ。
つまり、続編の“幸せになる勇気”で、狂信的な読者とアンチ読者に向けて同時に「誤解しているよ」とメッセージを送る形になっている。
前作に比べれば誤解されにくい書き方になってはいるが、やはり内容自体は受け入れられないし、具体策といっても結局つかえる範囲はかなり狭く読者に実用的とは言えないだろう。
僕に言わせれば、アドラー心理学は諦めの哲学。
悩みがなくなることを人間の成長とするなら、アドラー心理学通りに生きる意味は大きい。
しかし、アドラーの思想が蔓延すれば、
人に対して期待せず、二人の間にできた課題をすべて相手に投げつけ、簡単に縁を切る冷たい人間が増えるに違いない。
傷つかない心を手に入れる代わりに、人を傷つける。人を癒す力も失う。
それを成長と呼べるのだろうか。
アドラー心理学は、自分さえよければいいという考えがチラついている。究極的に人に冷たい。
人は冷たくされれば、自分も徐々に冷たくなっていくものだ。
このままアドラー心理学の侵略を許せば、人間関係の氷河期が訪れるだろう。
後半の章では“自由からの逃走”“愛するということ”で有名なエーリッヒ・フロムの言葉を引用することでその冷たさを打ち消そうとしていて、なんだかその手口にも萎えてしまった。
とは言うものの、流行っている本を読むことは内容の是非以前に今の世間を知るために大切なことだ。
どうして世間に受け入れられているのか、広まったらどういう影響が出るのかを考えながら流行りの自己啓発本を読めば、思考のトレンドが理解できる。
そのトレンドをファッション感覚で取り入れている人の扱いを事前に考えておけるメリットはあまりにも大きい。
まだアドラー心理学の本を読んだことがない人には、ぜひとも(幸せになる勇気ではなく)嫌われる勇気を読んでみてほしい。
自己啓発本を読むときの鉄則「批判的に読む」を忘れずに。
初めてのコジンカイサイ
今日、初めて個人で哲学カフェを開催しました。
参加者は僕を含めて6人。
ファシリテーションをしながら自分の意見を十分に言うには、丁度良い人数でした。
個人開催なら知り合いしか来てくれないだろうと踏んでいたのですが、蓋を開けてみたら半数以上は面識のない方で驚きました。
下は高校生から上は社会人までと年齢にも幅があって、多様な意見が飛び交う面白い会になりました。
さて、今回扱ったテーマは『病気は″しょうがない″のか』。
病名をラベルとして貼り付けることでそれ以上の理解を放棄し、病気への誤解を含んだまま思考停止しているのではないか、という問いを中心にみんなで考えていった。
ここで言う病気は、インフルエンザなどの短期的に治るものではなく、長年に渡って付き合って行かなければならないものを指す。
長年付き合ってきた病気は、趣味や出身地と同様に自己紹介のときに自然と言うべき内容にすらなる。
Twitterのbioにあたかもステータスのように病名を並べる行為もその延長線上にあるようだ。
しかしながら、そのメッセージも同じ境遇にある人に対してではなく健常者に向けているのであれば、あまり意味があるとは思えない。
というのも、「鬱だわ〜」「メンヘラかよw」「アスペじゃん」など、病名をネタっぽく扱う文化が根付いてしまっている中では、病名を伝えることに有益な影響を期待できないからだ。
ワードとして病名が一人歩きしている状態から脱却していく必要がある。
病名をラベルとして貼られることで、できない努力を強要されなくなると同時に、できる努力までも禁止されて、期待もしてもらえなくなってしまう。
それが悲しくて親しい間柄になれば、病名以上に精度の高い個人の症状を理解してもらいたくなる。
しかし、その理解にかかるコストは膨大なので自分のためにそこまで尽力してくれる人なのかは常に考えなくてはならない。
以下、他に出た意見の抜粋です。
・何を世間で病気とするかは、時代によって変わる。セクシャルマイノリティーが病気とされた時代があるように。
・健常者は、障がい者が何でもかんでも病気のせいにできることに嫉妬している。
・健常者と障がい者が一緒にいる場で、同じように対応するのは難しい。障がい者に対してウェイトを置きすぎに円滑にコミュニケーションを進めるシステムを作りたい。
・病気を持っている本人だけでなく周囲も、何かが出来ないことの根拠を病気に置きがち。
・生理的嫌悪感を禁止することはできないが、それを顔や行動に反映させないことはモラル観の範疇。
・病名を公言する側も病名を一方的に伝えるだけで心地よい環境作りをしてもらえると勘違いしている人が多い。
・メンヘラのメンヘラによるメンヘラのためのWebメディアであるメンヘラ.JP(http://menhera.jp)は、精神障害を持つ人のためのライフハックが載っていて参考になる。
次回はもう少しポップなテーマにして、リアルタイムでツイキャス配信しようかと計画中です。
非公式哲学カフェでは、onecafeとは異なり大学生だけでなく社会人の参加も大歓迎です。
興味がある方は、ぜひ次回ご参加ください。
新年のアイサツ
明けましておめでとうございます。
僕は数多あるイベントの中でも正月が一番好きだ。
イースター、七夕、ハロウィン、クリスマス、正月、バレンタイン。
どう考えても一番多くの人が楽しんでいると思う。というよりも悲しんでいる人が少ないと言った方がいいかもしれない。
これほどまでに排他性のないイベントはないだろう。
新年の挨拶も大切な文化だと感じている。
学生の間では廃れつつある年賀状の代わりに、ツイッターやLINEで連絡する風潮が広がっている。
しかしながら、全体に向けて「あけましておめでとう!今年もよろしく」と投稿しただけで終わりなことが多い。
実際には一対一での挨拶が肝心なのではないかと思う。
明けましておめでとうございますも、今年もよろしくお願いしますも、完全なる定型文であって、それ以外のメッセージがないならただ形骸化した文化に付き合わされているだけだ。
二人の関係性ならではのメッセージをつけることが必須条件。
ちょっとした誘いも新年の挨拶のついでということにすれば、幾分気持ちが楽になる。
相手の方が歳下だったり今の関係性が不安定だからといって、変な意地を張ったせいで、新年の挨拶にあやかって連絡したかったのにできなかった人が何人かいた。そんな自分が嫌いになる。
自分の感情に素直になって、交友関係をしっかり固めよう。(←抱負)
怒りのジュウヨウセイ
怒りという感情は、アドラー心理学で二次感情と位置付けられています。
つまり、怒りの根底には一次感情(落胆・心配・悲しみ・寂しさ・傷つき)という別の感情がある。
僕は、漠然と怒ることが結構あります。
怒るって言っても、イライラするとか、カンに触るとか、そういうレベルで。
もう年だから怒鳴らないよ。
いや、怒らせてくれるってすごいんですよ。
自分が何に怒っているのか考える機会をくれる。
つまり、自分を知るチャンスをくれてるんだから。
ツイッターでみんながどういう基準を持ってフォローしてるのかわからないけど、
僕は好きか嫌いな人をフォローしています。
嫌いな人はあえてブロックしない。
だから、僕にリムーブされた人は、嫌われたわけではないので安心してほしい。
嫌いでも好きでもない、かなりフラットな感情しか覚えない人をリムーブしてます。
嫌いな人はずっと好きな人と同じくらい大事にするよ。
怒りは、自分を知るために大切な感情だから、VIP対応されるべきだと思う。
年をとるごとに怒らなくなってくるのだとしたら、今のうちに怒っておくに越したことはない。
そして、怒りの一つひとつを大切にして解釈をする努力を怠ってはいけないような気がする。
イライラと共にワクワクを感じられる若さがあるときは、
怒りから逃げないようにしたい。
※今回の記事は、思考整理のためにツイキャスを使いました。
聞いてくださった方、ありがとうございました。
今後はブログのネタをまとめるためにキャスをすることが増えると思います。
たまたま時間が合ってリアルタイムで聞けた場合は、ぜひコメントをして僕の思考を深めるお手伝いをしてください。
よろしくお願いします。
モイ!「怒り」について話すぞ https://t.co/rZMHC7mXp6
— 唯一のゆいくん (@ii2orue) 2016年9月20日
僕がFacebookで誕生日を非公開にしたワケ
SNSの普及のおかげで、毎年たくさんの人から誕生日をお祝いしてもらえる環境が整っている。
特にFacebookだ。
毎日にFacebookから、
『今日は〇〇さんと他友達△人が誕生日です』
と通知が来る。
それを見て日課のようにお祝いコメントをしている友達もたくさんいる。
しかし、そのおめでとうには本当に価値があるのだろうか。
昨年の誕生日、僕もたくさんの人からメッセージをもらった。
それが当たり前でごく自然に嬉しいはずだったけど、なんだか素直に喜べなかった。
よくよく考えれば、ここ数年の誕生日は毎回同じ違和感を覚えていたみたい。
その違和感が徐々に大きくなって、見過ごせない大きさになっていた。
友達におめでとうと言われてなぜ嬉しいのかと言えば、
僕の場合は、自分の誕生日を覚えてくれていたからだ。
Facebookに甘えて人の誕生日に気を配っていない人からのおめでとうには心から喜べない。
Facebookのせいで、どれが本当のおめでとうで、どれが偽物のおめでとうなのか見抜けなくなっていた。
だからしょうがなく、みんなに同じような返信をしていた。
本当は覚えてもいなかった人も含めて。
それは、きちんと覚えていてくれていた人への冒涜。
そこで、僕はFacebookで誕生日を非公開にした。
その結果、Facebookの友達は465人もいるのに、今年の誕生日のお祝いコメントはゼロ。
LINEでメッセージをくれた友達の数もやはり少し減った。
しかし、きちんと覚えてくれていた人ももちろんたくさんいた。
今年は、その人たちには心からのありがとうを言えたと思う。
久々に、すがすがしい気持ちで誕生日を過ごせた。
誕生日の非公開設定。
去年の僕から今年の僕へ、最高のプレゼントだった。
ゆいくんのほしいものリスト→Amazon CAPTCHA
MENSAのコンシンカイ
MENSAの懇親会に参加してきました!
今までも例会には何回か参加してきましたが、
60人規模の飲み会に参加するのは初めて。
もちろん新規メンバーばかりではなくいわゆる00ナンバーを有する古株さんも参加する例会だったので、少し緊張していました。
今回のイベントは『 ~Inspired by AMAG~』の名を冠しています。
AMAG(Asian Mensa Annual Gathering)とは、毎年アジア諸国で開催されてきたMENSA会員交流の場のことです。
AMAGに参加したくても参加できない人も多い中で、ちょうどAMAGが開催されている期間中に、今年AMAGが開かれる中国は広東省広州市の料理を食べながら親睦を深めようという趣旨のイベントでした。
年齢層はかなり高めで、学生は5%ぐらいだったと思います。
その分、人生の先輩と様々な話をできて、持って帰るものも多い会でした。
世間は狭いもので、最初の席で隣だった人は同じ高校出身、次の席で隣だった人は僕の大学のOBでした。
だいたい席替えをする前にFBの友達申請をして気づくから、また話しましょう!ってなってしまうんですが。
また、何かの例会でお会いしましょう。
IQ上位2%なんていう自慢になるか怪しい称号に満たしてもらえる承認欲求なんて高が知れている。
多種多様なバックグラウンドを持っている人と平等な立ち位置で話せることこそ、メンサの価値。
刑罰といじめのセンビキ
久々に哲学カフェサークルonecafeに参加してきました。
インカレ学生哲学カフェサークルonecafe on Strikingly
実は僕は昨年度までこのサークルの代表を務めていて、汗と涙と血を注いで育ててきたと言っても過言ではありません。
onecafeは日本初のインカレ哲学カフェサークルです。
ゼミの一環として大学の研究室でやっているような哲学カフェなんかよりも、バリエーション豊かなバックグラウンドを持った学生が集まってくるので、必然的に面白いコミュニティーになっていると思います。
さてさて、今回のテーマは『刑罰といじめに線引きができるか』
“正しいとされる法律や憲法も結局のところは多数決で変更が可能な制度といえる。では同じく多数派の論理でなされるいじめとはどこが違うのだろうか。集団における意思決定のなかでどのプロセスが正義を生み出しているのだろうか。”
以下、僕の見解です。
刑罰といじめの相違点は、その目的。
日本における刑罰の目的は、目的刑論と応報刑論の折衷案である相対的応報刑論で、明らかにいじめの目的とは異なるとわかるはずだ。
逆に、刑罰といじめの共通点は、罰せられる対象が少数であるという構図。
その構図を保ったままサイズが大きくなっている。
罰の正当性は、対象が大きくなればなるほど、保証される。
今採用されている刑罰の正当性は、哲学カフェでもよく扱われるテーマで、特に死刑制度は激しい論争になる。
1990年代から先進国が廃止を進める風潮があるため、存知国である日本ではよく話にあがっている。
そもそも、他の国はこうしているから、自分たちもという考え方に意味があるのだろうか。
第三者から正当性を判断される状況は、
子供同士には全くそんな気がないのに先生や親がいじめ問題だと大げさに取り上げてしまうケースと構図が似ていると思う。
フィリピンの殺害容認問題も同じ形に見える。
ドゥテルテ大統領が就任してからの2ヶ月で、麻薬関係者が1000人殺されたことが世界中で問題視されている。
しかし、ドゥテルテ大統領がこのような性格であることは就任前から周知されていたわけで、急に暴挙を始めたわけではない。
就任時の支持率は、91%だ。
つまり、フィリピン内ではこの容認されているのだ。
そんな中、オバマ大統領や国連が口を出してきている。
絶対的な正義がない以上、法も一つに決めることはできない。
最大公約数は見つけられても、最大公倍数を全世界で採用することは非現実的だ。
その国の特徴や段階によって異なった法が採用されるべきで、自分の持ち合わせる倫理観と相性が良くないだけなら、あまり周りからガヤガヤ言うべきではないだろう。
また、このテーマの議論においては、多数決の正当性を話す必要がある。
最近の話で言えば、イギリスのEU離脱がいい例になると思う。
多数決、特に一人一票制度の正当性は、有権者全員が最低限のレベルに達していることが必要だろう。
たとえば、3人兄弟がいる家族で意見の分布が、
子供3人:親2人になった場合、どう考えても親の意見が正しいとされるだろう。
絶対的な多数決の地位も怪しくなってきている。