インクレディブルファミリーを考察する
待つこと早14年、待望のMr.インクレディブルの続編が公開されましたね。
制作が発表されてからも上映予定が遅れに遅れ、その度に「まだなのか」と落胆してきました。
ようやく少しずつ予告映像が出されていくと、今度は「本当に続編が観られる」という喜びと同時に不安感も募っていくことに。
それは、この作品がピクサー続編作のシステムからズレていると感じずにはいられなかったからです。
ピクサー続編作のシナリオにはある種の規則性があって、前作と“時間軸をズラす”/“主人公を変える”のどちらかまたは両方が採用されてきています。
しかし、今回のインクレディブルファミリーでは前作のラストシーンからそのまま続くストーリーで、時間軸のズレが全くない上に予告で出てくるのは前作でも出てきているキャラばかり…。
子供達がもう少し大きくなった方が面白いに決まってるじゃないか!そう愚痴をこぼしていました。
結果的には、そんな不安を軽く吹き飛ばす良い映画だったと思います。
ちなみに、主人公をMr.インクレディブル→イラスティガールに変更した作品だと捉えることもできるので、革命的で斬新なスタイルでもなかったわけですね。
深読みさせられた形になってしまったのは、新キャラが軒並み敵キャラで秘密主義な予告映像になっていたのが一因。
さて、前作から繰り返し出てくる“15年”というワード、シリーズ内ではヒーローが姿を消してから社会にまた必要とされるまでの年月のことですが、僕はそこにも考察する余地があると感じました。
時間が繋がっているだけあって、キャラが主張する価値観には前作と今作を通して強い一貫性があります。
仕事と家庭、性別の文化的な役割、正義と悪。
現実世界で前作から14年経った今、同じメッセージに対する受け取り方が変わったのでないかと自問せずにはいられない。
世間の善悪は時間をかけながらも着々と変わっていく。ときには善悪が逆転することもある。
インクレディブルの続編でキャラを成長させないのは悪手に違いないと思っていたけれど、そのおかけで自分の感覚を基に時代性の変化について考えるという貴重な経験ができたと思えばお釣りがジャラジャラと返ってきました。
「アナ雪とかズートピアとか、最近のディズニー映画は露骨で強いメッセージが込められているから楽しめない」なんて意見をよく見かけます。
そう評価されることが多くなったのは間違いないけれど、ピクサー含めディズニーはアナ雪よりも遥か昔から強いメッセージ性を織り込んで映画を作っています。
自分が大人になったことで、子供の頃では気づけなかった次元のメッセージ性を受け取っているのではないでしょうか。
そんな人にこそ、ぜひ小さい頃に観ていたディズニー映画も今一度大人の目線で観てみてほしいです。
子供も大人も楽しめる、違う意味で楽しめる、それこそがディズニー映画の特徴なので。
優位性に逃げない
高文脈的な言語を使っている僕たち日本人は、常に人間関係を最重要な問題としている。
KY→コミュ障→アスペ→忖度などと言葉を変えながらも、“気持ちを汲み取るべき”という強迫観念は強大な支配力を持ち続けている。
「I.Qが20離れると話が通じない」と「アスペは空気が読めない」
メンサに発達障害者が多いという事実から考えて、どちらの説も同じ状況に対する対極的な視点から行われた論理性の低い考察なのだろうと思う。
会話が円滑に行えていない原因を自分or相手が優れている/劣っているからという優劣を帯びた部分に求める風潮が実に気持ち悪い。
そうすることで話が通じないのはしょうがないことだと結論付け、会話をやめる。
仮にI.Qや障害が理由だと自分の中で推測したとしても、ではどうやったらそういう人たちと会話ができるかを考えることにこそ意味があるはずなのに。
「どうやったら世間が“会話の難しいとされている状況”から回避するのではなく打開策を考えるようになるか」
重要だとは思っても実際に考えている人は少ない。動いている人は更に少ない。
僕は“哲学カフェ”にその可能性を見出したのかもしれない。
アイドルがアイドルをやめること
アイドルを推す。
それは応援よりも崇拝に感覚が近い。
アイドルになることを出家に例えるなら、アイドルをやめることは還俗と言えるだろう。
小さい頃から厳しい道を歩んできたからこそ崇拝の対象だったのに。
ステージにマイクを置いて、普通の女の子に戻りたいとか、普通の恋愛がしたいとか、別の夢を追いかけたいとか。今更、普通の人間になりたいなんて言われたら本当に冷めてしまう。
アイドルという肩書きを持ちながら他のことも並行してやればいいのに、あえてアイドルではなくなる必要がどこにあるのか。
今の世の中は“アイドルがアイドルをやめること”に慣れすぎている。
「本人の決めたことなら応援する٩( 'ω' )و」と口に出す人は、どういうアイドル感を持っているのか気になるところだ。
良い名前のジョウケン
「こんなキラキラネームがあるらしいよ、マジウケる」という薄っぺらい笑いが現れてから、もう15年は経っている。
モラルの形成には時間がかかるとは言え、あまりに長く存在しつづけていて実に不快だ。
名付け親の神経を疑うとか子供が可哀想だと言っても、その子供の味方をしたことにはならない。そんなことさえもわかっていない。
名前の価値判断基準には“誰に付けられたか”という項目があって、名付け親を否定されるのは自分を否定されるよりも辛い。お前の母ちゃんデベソと同じで。
そもそも、名前も人種や身体的特徴と同様に生まれながらにして持っている要素なのだから、差別的に扱ってはいけないはずでしょ。
有難い事に僕は自己紹介をすると十中八九「良い名前ですね」と言ってもらえる。
これが誰にでも当てはまる“あるある”ではなくて、珍しい名前の人だけだと気付いたのはここ最近のことなんだけど。
一般論として名前には良い悪いがあって、珍しさは良い名前の必要条件なのだろう。
そもそも名前には識別を目的とする記号という側面があって、識別性能が高いことが重視されるのは当たり前。
特に、人生の中で出会う名前が加速度的に増加している現代においては、今まで聞いたことがないような斬新な名前(さらに言えば検索で引っかかりやすい名前)が出現するのもやはり当然だと思う。
でも、いわゆるキラキラネームは珍しいにも関わらず良い名前とは思われていない。
そこで、その他にも“初見でも読める”とか“由来が想定しやすい”ことも良い名前の条件なのかもしれないと考えを及ばせることになる。
一般的とは言えないまでも、僕が思う良い名前の条件もいくつかある。
まずは“自分で由来を決め直す余地がある”こと。
僕が今でも自分の名前を好きでいられるのは、まさしく僕自身の名前もその条件を満たしていたからだ。幾度となく救われた。
他には、“呼びたくなる音”であること。わざわざニックネームを付けて短縮する必要もなく、そのままの音で口に出したくなるような。
同年代の人たちに子供が出来始めたからだろうか。
僕は今のところ結婚も子供も欲しくないけれど、人に名前を付けてみたい、名付けの重みを味わいたいと最近よく思うようになった。
もしその機会に恵まれたら、考えに考え抜いた一生の宝物を授けたい。
二度目の死
人間は二度死ぬ。一度目は心臓が止まったときに、二度目は人から忘れられたときに。
人が「死にたい」と口にしたら、多くの場合は“二度目の死”を意味するのではないだろうか。
しかし、二度目の死を完璧に決行するのは甚だ現実的ではない。
何か外的な刺激を受けてやっと思い出せる状態も“忘れている/忘れた”とするなら、僕もみんなも何十人何百人何千人と人を殺めていることになる。
それだけ日常的に忘却が行われていようと、関わった人全員に殺してもらうのはほぼ不可能だ。
人から忘れられるために自分ができることは何かあるか。僕には網羅的で効率的な方法は1つも思いつかない。
ある意味では一度目の死より二度目の死の方がより難しいと言えるかもしれない。
忘れたいのに忘れられないこと。
忘れたくないのに忘れてしまうこと。
忘れられたいのに忘れてもらえないこと。
忘れられたくないのに忘れられてしまうこと。
人間関係と忘却と恐怖と生死。
記憶は、恐ろしく厄介でありながらそれが途轍もなく面白くて、人間が死ぬまで付き合っていかなくてはならない概念なのだろう。
生臭い映画を観て
是枝監督が撮った映画を初めて映画館で観た。
そう、今話題の万引き家族。
是枝監督の作品に繰り返し起用される樹木希林とリリー・フランキーの演技は、観客の視点を地面に括り付ける。
あの人たちが出てくると途端に物語が空想の世界に飛んでいけなくなるような。
僕が今踏んでいる床と地続きの場所で繰り広げられている話だと実感させられてしまう。
演技を通り越して、リアルを通り越して、もはや生臭いんだ。
映画館は映画の世界に没入しやすくする装置。
程度は違えどどの映画も空想の世界で、そこに入り込むことは現実から一時的にログアウトする感覚に近い。
僕はそれが楽しくてしょうがなくて、いや時には現実から目を背けたくて、映画を観ているのだと思う。
だから、映画館という半ば強制的に集中せざるを得ない環境で空想とは思えないほど現実味が強い映画を観るのが辛かったのかもしれない。
無意識的に認知の外側に追いやっているような、でも少し考えれば近くにいるに決まっているような人々をまじまじと見なくてはいけない。これがinvisible peopleか。
2018年上半期の展示会
2018年という年も始まってから早くも6ヶ月が過ぎ去ったことになる。
その間に僕が足を運んだ展示会は80を数える。中でも印象的だった展示会をまとめておこうと思う。
1. マイク・ケリー展 デイ・イズ・ダーン
http://www.watarium.co.jp/exhibition/1801mike/index.html
365の映像とインスタレーションとして構成された幼少期のトラウマ。一回見たら忘れられないトレインダンス。
2. 谷川俊太郎展
http://www.operacity.jp/ag/exh205/
3.3の質問が秀逸。
3. ヨシダナギ展「Tribe Walk」
http://nagi-yoshida.com/wordpress/1587
御本人とも少しお話しすることができて、モデルの選考について気になっていたことが聞けてよかった。
http://www.obayashifoundation.org/event201802.html
新宿御苑の再開発案が面白かった。
5. くまのもの 隈研吾とささやく物質、かたる物質
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201803_kengo.html
今日本人建築家を取り上げるなら安藤忠雄より隈研吾展に違いない。
6. ルドン-秘密の花園
グランブーケの魔力がエグかった。1時間近くも目の前から動けなかったし、2回見にいく羽目になった。
7. 理由なき反抗展
http://www.watarium.co.jp/exhibition/1804rebelwithoutreason/index.html
海外の有名な現代美術作家大集合。
8. ヌード NUDE ―英国テート・コレクションより
http://yokohama.art.museum/exhibition/index/20180324-496.html
ロダンの接吻(オリジナル)が動いているように見えた。これほど印象に残る彫刻作品は初めて。
9. 人体 ー神秘への挑戦ー
10年以上前の人体の不思議展と比べてしまった。本物の人体模型へのモラル感が一新されたようだ。
10. 中村佑介展 ALL AROUND YUSUKE NAKAMURA
http://www.parco-art.com/web/other/exhibition.php?id=1234
東京ではやらないって言うから大阪にまで見にいったのに…。あべのハルカスより展示内容が少し増えてたから良かったけど。
11. 至上の印象派展 ビュールレ・コレクション
印象派ではない作品も多く展示されていて驚いた。
印象派は人物画より風景画。ルノワールの描く人物画はどれも不自然なほど童顔。幼女を描けば自然。モネ、よかった。
12. 現代美術に魅せられて-原俊夫による原美術館コレクション展
http://www.art-it.asia/u/HaraMuseum/NGs6zPJwCV3WYyQrk9De/
日本の現代美術作家大集合。
13. 六本木アートナイト
http://www.roppongiartnight.com/2018/
金氏徹平のTower、映像作品から小説の表紙ときて、とうとうインスタレーションにまでなってて笑った。
14. 森村泰昌展『高く、赤い、中心の、行為』
http://mem-inc.jp/topics/news/
トークショーが最強に熱かった。
15. 第12回 shiseido art egg」冨安由真展
http://www.shiseidogroup.jp/gallery/
TARO賞の展示で見かけて知っていたけれど、気がついたら個展までやってましたね。後半は評判が回ってだいぶ混んでたようです。確かに面白い。
下半期の注目展示会一覧
ミラクル エッシャー展
〜7/29
ルーヴル美術館展 肖像芸術―人は人をどう表現してきたか
~9/3
ミケランジェロと理想の身体
〜9/24
モネ それからの100年
7/14~9/24
イサム・ノグチ ー彫刻から身体・庭へ
7/14~9/24
デザインあ展 in TOKYO
7/19~10/18
9/26~12/17
開館15周年 ルオー没後60年 特別企画展 いとも大いなるルオー ─ 聖なる芸術とモデルニテ ─
9/29~12/9
10/5~
カタストロフと美術のちから展
10/6~
10/16~
ムンク展
10/27~