僕のシコウ

僕のただの“嗜好”であり、同時に“至高”の“私考”。この“思考”は今はまだ“試行”中であるが、僕の“志向”に繋がっている。

試行回数のゲンカイ


商業的にはハロウィンが終われば間髪入れずにクリスマスだ。

対して僕の心持ちはといえば、紅葉の見頃が終わってよくやく追いつく。

街の雰囲気もイベントも食べ物もクリスマス独特の仕様で、その節々が記憶と結びついているから一年のどんな日よりも思い出を遡りやすい。

何歳の時は誰といたか、何をしたか。

どれだってそれ自体が楽しい思い出であったことに違いはないけれど、今振り返ってみると同じことを繰り返していただけのようで物言えぬ寂しさに襲われる。


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一対一の人間関係の在り方には無限の可能性がある。それは疑いようのない真実だ。

しかし、自分が生で体験できる関係性に限るのであれば、2人のうち片方が自分である時点で大きな偏りがあってもはや多様とは言えないのではないか。

刻一刻と自分が変わっていてもその変化の速度には限界がある。

映画でもアニメでも小説でもコントでも。あらゆる物語性を含む刺激は、登場人物の全てが自分ではない点で生の関係性よりも多様性がある。コストも段違いに低い。

そんな中で、生の体験にこだわって真新しい刺激を得られる勝算はどれほどなのだろうか。

またどうせああなる。そう思いながら誰かと時間を共にすることに期待感を持つのは難しい。

失敗を重ねて身動きが取れなくなる前に成功を手に入れなくてはならない。

試行回数の限界が見えてきた気がする。


時代のホウカイ


平成最後という煽りに嫌気が差す。

いくら元号が変わろうと未来の代名詞となった2020が訪れようと、途端に何が変わるわけではない。

そう思いながらも、根底では迫り来る次の時代に恐怖を覚えている。

時代に乗れないことや時代遅れであることが恥に直結するという考えは未だに強い力を有していて、自分自身が次の時代の一員になれるのか不安にさせられている。


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一人前に怯えているクセに、時代と呼ばれる巨大な概念が果たして何を指しているのかを、僕は上手く説明できない。

割と近い感覚の言葉として文化が挙げられると思う。同時期に共通の特徴を見出せる大きなまとまり。

ただし、そうした場合には現行の“個人主義・多様性の時代”という表現は可笑しな言葉の組み合わせで、同じ時間を生きる人々に顕著な特徴を見出せないことこそがこの時代の特徴であるという次元のずれた別の解釈を迫られる。

このように現代における時代はキリストが生まれてから何年経ったのかという時間性だけで語ることができないのは確かで、少なくともこの意味での時代にはもはや有用性が認められない。そして、恐れを抱く必要もないはずだ。


それぞれの人間が自分の時代を生き、別々の時代が同一の時間に存在して干渉を繰り返す。

無意識的に多様な時代を自分の足で跨いで生きている。いとも容易くタイムスリップを繰り広げているとも言えるかもしれない。

自分と同じ時代に生きていると見なせる人はどれだけ存在するのだろうか。

僕は価値観が合う人よりスピード感が合う人と一緒にいたい。


時間は解決してくれない



「時間が解決してくれる」というセリフは、悩みを抱えた人を慰める場面の常套句になっている。

ああでもないこうでもないと相談をしてお開きが近づくと決まって出てくる。

しかし、僕には“時間”が諸問題に万能薬として作用しているとは到底思えない。


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人間の悩みは全て対人関係の悩みであると言われるように、ひとつの問題には複数の当事者が存在する。

自分も当事者でありながら何もせずに問題が解決したのであれば、それは“時間”ではなく別の当事者が問題解決に尽力してくれたのではないだろうか。

課題の分離を放棄して別の当事者へ課題を押し付ける。卑怯者だ。それならそれで罪悪感くらいは持っておくのが道理だと思う。


そう考えている僕でも意図的に問題に時間を置くことがある。

それは、別の当事者に解決を委ねているわけではなく、時間を経て少なからず当時の自分ではなくなった新しい自分(と別の当事者)に解決してもらうことを期待している。

もちろんそれで上手くいくこともあれば上手くいかないこともあるが、上手く解決できたのならやはり“時間”ではなく新しい自分たちが解決したと言える。



放っておいても誰かに解決してもらえる問題は確かに多い。しかし、それでは解決は遅くなるばかりだ。

どれだけ早く解決するかを気にするのであれば、消極的当事者になるのはいつだって悪手に違いない。

僕たちはどの問題に対して積極的当事者でいるかを選ぶ必要がある。


インクレディブルファミリーを考察する


待つこと早14年、待望のMr.インクレディブルの続編が公開されましたね。


制作が発表されてからも上映予定が遅れに遅れ、その度に「まだなのか」と落胆してきました。

ようやく少しずつ予告映像が出されていくと、今度は「本当に続編が観られる」という喜びと同時に不安感も募っていくことに。

それは、この作品がピクサー続編作のシステムからズレていると感じずにはいられなかったからです。

ピクサー続編作のシナリオにはある種の規則性があって、前作と“時間軸をズラす”/“主人公を変える”のどちらかまたは両方が採用されてきています。


しかし、今回のインクレディブルファミリーでは前作のラストシーンからそのまま続くストーリーで、時間軸のズレが全くない上に予告で出てくるのは前作でも出てきているキャラばかり…。

子供達がもう少し大きくなった方が面白いに決まってるじゃないか!そう愚痴をこぼしていました。


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結果的には、そんな不安を軽く吹き飛ばす良い映画だったと思います。

ちなみに、主人公をMr.インクレディブル→イラスティガールに変更した作品だと捉えることもできるので、革命的で斬新なスタイルでもなかったわけですね。

深読みさせられた形になってしまったのは、新キャラが軒並み敵キャラで秘密主義な予告映像になっていたのが一因。


さて、前作から繰り返し出てくる“15年”というワード、シリーズ内ではヒーローが姿を消してから社会にまた必要とされるまでの年月のことですが、僕はそこにも考察する余地があると感じました。

時間が繋がっているだけあって、キャラが主張する価値観には前作と今作を通して強い一貫性があります。

仕事と家庭、性別の文化的な役割、正義と悪。

現実世界で前作から14年経った今、同じメッセージに対する受け取り方が変わったのでないかと自問せずにはいられない。

世間の善悪は時間をかけながらも着々と変わっていく。ときには善悪が逆転することもある。

インクレディブルの続編でキャラを成長させないのは悪手に違いないと思っていたけれど、そのおかけで自分の感覚を基に時代性の変化について考えるという貴重な経験ができたと思えばお釣りがジャラジャラと返ってきました。


「アナ雪とかズートピアとか、最近のディズニー映画は露骨で強いメッセージが込められているから楽しめない」なんて意見をよく見かけます。

そう評価されることが多くなったのは間違いないけれど、ピクサー含めディズニーはアナ雪よりも遥か昔から強いメッセージ性を織り込んで映画を作っています。

自分が大人になったことで、子供の頃では気づけなかった次元のメッセージ性を受け取っているのではないでしょうか。

そんな人にこそ、ぜひ小さい頃に観ていたディズニー映画も今一度大人の目線で観てみてほしいです。

子供も大人も楽しめる、違う意味で楽しめる、それこそがディズニー映画の特徴なので。


優位性に逃げない


高文脈的な言語を使っている僕たち日本人は、常に人間関係を最重要な問題としている。

KY→コミュ障→アスペ→忖度などと言葉を変えながらも、“気持ちを汲み取るべき”という強迫観念は強大な支配力を持ち続けている。



「I.Qが20離れると話が通じない」と「アスペは空気が読めない」



メンサに発達障害者が多いという事実から考えて、どちらの説も同じ状況に対する対極的な視点から行われた論理性の低い考察なのだろうと思う。


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会話が円滑に行えていない原因を自分or相手が優れている/劣っているからという優劣を帯びた部分に求める風潮が実に気持ち悪い。

そうすることで話が通じないのはしょうがないことだと結論付け、会話をやめる。

仮にI.Qや障害が理由だと自分の中で推測したとしても、ではどうやったらそういう人たちと会話ができるかを考えることにこそ意味があるはずなのに。



「どうやったら世間が“会話の難しいとされている状況”から回避するのではなく打開策を考えるようになるか」



重要だとは思っても実際に考えている人は少ない。動いている人は更に少ない。

僕は“哲学カフェ”にその可能性を見出したのかもしれない。


アイドルがアイドルをやめること


アイドルを推す。

それは応援よりも崇拝に感覚が近い。

アイドルになることを出家に例えるなら、アイドルをやめることは還俗と言えるだろう。


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小さい頃から厳しい道を歩んできたからこそ崇拝の対象だったのに。

ステージにマイクを置いて、普通の女の子に戻りたいとか、普通の恋愛がしたいとか、別の夢を追いかけたいとか。今更、普通の人間になりたいなんて言われたら本当に冷めてしまう。

アイドルという肩書きを持ちながら他のことも並行してやればいいのに、あえてアイドルではなくなる必要がどこにあるのか。

今の世の中は“アイドルがアイドルをやめること”に慣れすぎている。

「本人の決めたことなら応援する٩( 'ω' )و」と口に出す人は、どういうアイドル感を持っているのか気になるところだ。


良い名前のジョウケン


「こんなキラキラネームがあるらしいよ、マジウケる」という薄っぺらい笑いが現れてから、もう15年は経っている。

モラルの形成には時間がかかるとは言え、あまりに長く存在しつづけていて実に不快だ。

名付け親の神経を疑うとか子供が可哀想だと言っても、その子供の味方をしたことにはならない。そんなことさえもわかっていない。


名前の価値判断基準には“誰に付けられたか”という項目があって、名付け親を否定されるのは自分を否定されるよりも辛い。お前の母ちゃんデベソと同じで。

そもそも、名前も人種や身体的特徴と同様に生まれながらにして持っている要素なのだから、差別的に扱ってはいけないはずでしょ。


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有難い事に僕は自己紹介をすると十中八九「良い名前ですね」と言ってもらえる。

これが誰にでも当てはまる“あるある”ではなくて、珍しい名前の人だけだと気付いたのはここ最近のことなんだけど。

一般論として名前には良い悪いがあって、珍しさは良い名前の必要条件なのだろう。

そもそも名前には識別を目的とする記号という側面があって、識別性能が高いことが重視されるのは当たり前。

特に、人生の中で出会う名前が加速度的に増加している現代においては、今まで聞いたことがないような斬新な名前(さらに言えば検索で引っかかりやすい名前)が出現するのもやはり当然だと思う。


でも、いわゆるキラキラネームは珍しいにも関わらず良い名前とは思われていない。

そこで、その他にも“初見でも読める”とか“由来が想定しやすい”ことも良い名前の条件なのかもしれないと考えを及ばせることになる。



一般的とは言えないまでも、僕が思う良い名前の条件もいくつかある。

まずは“自分で由来を決め直す余地がある”こと。

僕が今でも自分の名前を好きでいられるのは、まさしく僕自身の名前もその条件を満たしていたからだ。幾度となく救われた。

他には、“呼びたくなる音”であること。わざわざニックネームを付けて短縮する必要もなく、そのままの音で口に出したくなるような。



同年代の人たちに子供が出来始めたからだろうか。

僕は今のところ結婚も子供も欲しくないけれど、人に名前を付けてみたい、名付けの重みを味わいたいと最近よく思うようになった。

もしその機会に恵まれたら、考えに考え抜いた一生の宝物を授けたい。